相談D(日本人の誇りとは・・)
相談C(子供の学校選び)
相談B(忙しい日本)
相談A(異国の地で)
相談@(海外から戻ったとき・・)

Mmeエクアのナンデモ*相談コーナー
【私に何かできるだろうか
テレビでアフリカの飢饉やエイズなどの病気で苦しむ人々や戦争の犠牲になってる人々を見ていると、同じ地球上のこととは思えないほど悲惨で、胸がつぶれそうになります。そして、こうやってぬくぬくと贅沢な暮らしをしていくことに後ろめたい気持ちになったりします。Mmeエクアさんもそういうこと感じますか。こんなことしていていいんだろうか。何かできることをやらなければ、と思うけれど、どうした
らいいのかわかりません。(気持ちばっかり先走ってるケイより)
Mmeエクア:他人の痛みに心を向けるあなたは、なんて優しい人なのでしょう。
「世界がもし100人の村だったら」を読んで、自分の暮らしが、如何に恵まれたものであるかさえ、自覚できないでいた自分に気付いた、という日本の若者達も多いようでしたね。

私が今住んでいる国の言葉に、翻訳ができないかしら?と相談したらその国の知人が言いました。
「ここでは、この考えは共感されないですよ」
やっぱりね。
300坪の大邸宅が続くエリアと、劣悪な住環境のスラムが隣接し、生活レベルは雲泥の差でも、それはそれ。ベンツに乗った人が、一瞥もくれず、通り過ぎてゆく。

不思議に思うのは、なんとしてもそこから這い上がろうという気概が 全体的にあまり、うかがえないし、かといって、強盗事件もほとんど聞かない。
それなりの暮らしを受け入れ、一見穏やかに暮らしている。
階級社会が根付いている、ということはこういうことなのかしら、と思います。

この街に住んでいると、居心地の悪さを感じる場面はしょっちゅうです。
濡れた路上で、物乞いをする赤ちゃんを抱いた女性の前を「ゴメンネ。違う形で何かさせてもらうから・・・」と心の中で言いながら、歩を早めています。
これはね、政府や王様が恵まれない人々を救うプロジェクトを推進する一方、隣国から組織ぐるみで“お仕事”に来ているケースが多いようなので、お金をあげるのがいいことかどうかわからないからなのですよ。

Mエクアは、教育を受けられない子ども達を支援するボランティアに少々関わっています。
そのプログラムをお手伝いしたい、と思うのはね、自分達の境遇を改善する自分達のリーダーが育っていく可能性があるからなの。
実際、支援を受けている高校生・大学生からの教育里親へのお手紙を日本語に翻訳している時など この子は、光になる人材、と思う子に “たまに”出会います。
3,000人の子供に支援をして、みんながみんな成果を挙げるか、というと、それって日本の子供に当てはめてもわかりますよね・・・
かといって、“せっかく学校に行かせてあげているのに、これじゃぁ、意味がないから止めましょう」というのは早計すぎます。
“たまに、そのような子がいる”で充分だと思います。
よその国の人間が、その価値感で「さぁ、こんな風にやってごらんなさい」「こうしたら幸せが手に入りますよ」という短期的な支援もさることながら、長期的な教育支援も、大事なのでは と考えます。

と、同時に最近 また衝撃的な言葉に触れました。
外国人男性を相手にする仕事の女性達に、ボランティアで日本語を教えている女性の話です。

「教えることが いいのかどうかわからないけど今、必要としていることなのだから、やっているのよ。
だって、極端な話、客との交渉の際、女のこにリスクを少なくさせる為の日本語から教えるのよ」
そのボランティアは、日本からのNGOが母体で、日本語クラスは、活動の一端であり、セミナーなどによる啓蒙活動を主にしているそうですが。

そんなわけで、自分の恵まれている部分で、地球上の同胞への思いを形で表わすのは、たくさんのケースがあって絞り込みは難しいです。
でも、あなたが日常の生活のなかで、心の隅に留めていたら徐々に形となって、あなたを必要としてくると思います。
優しい気持ち、自分に謙虚である気持ちを持ち続けてくださいね。
ケイMmeエクア様、目の前の霧がすーっと晴れてきたような気がします。ひとつのものさしだけでは計れないのが現実なのですね。さし当たって自分に何ができるか、それはわからないけれど、常に心の扉を開いて、やさしい気持ちを忘れないようにしようと思います。どうもありがとうございました。

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