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「チキン」について(作者自身による前置き)

  「チキン」
              緒方 伸之
         
 話し中の信号音が悪意のある棘のように鼓膜を突いた。闖入者に対する警報。或いは、いくらあやしても泣き止まない幼女の泣き顔。どちらにせよ、それは世界の拒絶の意思を表している・・・あの時、僕はそんなことを考えながらぼんやり目を上げた。
 五時二十分    。
 学校の教室を少し縦長にした位の室内には窓に向かって二列に事務机が並び、十数人の〈指導員〉たちが電話機と格闘している。掌で虚空を掻いて熱弁を振う者、邪険に断られた腹いせからか受話器を叩きつける者。机の下に潜りこんでボソボソと話し込む者もいる。壁に貼られたコンテストのスローガンが、夕陽を吸って毒々しい色を放った。
「ほら、かけるフリだけでもしないと。所長が見てるわよ」
 隣の席から百合子さんが受話器を耳にあてたまま目配せした。僕は慌てて通話ボタンを押し直し、生徒名簿のページを繰った。
 断られた印の青いマーカーの線で埋まった名簿の中で、前回電話した時に留守だった家が一軒だけ白く残っていた。指先をハンマーの形に折り曲げ、数字のボタンにぶつける。仄暗い脳裏に透明な顔の少年が現れ、ペコンと頭を下げる・・・
「はい、シューリョー!」
 その時、窓際の席の角村氏が唐突に叫んで、パチッと手を叩いた。夕闇の漂う室内にガシャガシャと受話器を置く音が響いた。丸子所長がのっそり立ち上がって腕時計を見た。
「休憩時間まではまだ五分もありますよ、セイノー部長さん」
「けちなことを言いんさんな。みんな朝から電話を打ち続けてクタクタなんよ。こんな状態でアポが取れる訳ないじゃろ。なんなら、あんたが今ここで電話してみんさい」
 角村氏は早口でまくしたてると、椅子ごとクルッと向こう向きになった。丸子所長はまだ何か言いたそうにその背中を睨んでいたが、指導員たちの苛立った視線に気がつくと、急に卑屈な笑顔を浮かべ、所長室に引っこんだ。
「まったく懲りんなあ、あの人も」
 両手を頭の後ろで組んで椅子に凭れた元生保会社所長の湯殿さんがグビッと笑った。
「往年の全共闘の闘士に向かって正面攻撃は無謀だわな」
 角村氏がコホンと気どった咳払いをした。「ええ、ここに結集したすべての学生諸君。ワレワレはー、ベトナムに対するー、アメリカの侵略をー、断固粉砕しー」
「異議なし、異議なし。ええから、はよメシに行こうや。ノストラジーに浸っとらんと」
 戸口の所から、学生時代は応援団長だった恩田さんがダミ声を上げ、角村氏はドスンとこける真似をした。湯殿さんは大きな腹を揺すってキャッキャと娘のような声で笑った。隣の席では百合子さんが黙々と弁当の包みを解いていた。

「ケッコー、ケッコーって、まったく鶏じゃあるまいし」
 僕がコンビニで買って来たカップ麺に電動ポットの湯を注いでいると、背後から百合子さんの声が聞こえた。どきっとして振り向いたが、百合子さんはじっと壁を見つめているばかりだった。カップ麺の蓋が捲れたので大急ぎで机に戻ってポケットサイズの英和辞典を載せた。百合子さんがクスッと笑った。
「その辞書、チキン君に教える時に使うの?」
「違いますよ。教えるのは講師の仕事でしょ。僕は先生じゃないから」
 チキン君というのは三ヶ月前、僕がこの教材会社に入社して初めて契約をとった生徒のことだ。家が養鶏をしているので、指導員たちは僕への皮肉もこめてそう呼んでいる。
「じゃあ、いつも何を話すの、あなたに会いに来て」
「そう・・・宇宙のこととか、ビッグバンの話とか」
 へえーっとゆで卵を頬張った口を押さえて百合子さんは僕を見た。
「おかしいですか」
「おかしいわよ。教材屋と、売りつけられた生徒がビッグバンの話をするなんて」
「あいつにとっては、それがストレス解消法なんですよ、何と言っても東大の理一狙いだから」
百合子さんはふーんと考え深そうに頷いて窓に目をやった。日が暮れて隣のビルが黒い墓石のように見える。所長室に誰か客が来ているらしく、押し殺したような声が聞こえた。
「ね、元塾の先生としてはどう思う?」
「どうって・・・?」
「やっぱり教材だけで勉強するのは無理なのかなあ」
「そんなことはないですよ。ウチは予備校の先生雇って個別指導もしてるでしょ。分からない所が出たら、いつでも質問に来れる」
「でも家でテキストのページを開くのは、生徒自身よね」
「当たり前じゃないですか、自学自習が勉強の基本なんだから」
 僕は以前に塾で教えていた頃、ただ友達と騒ぐためだけに来ていた生徒たちのことを思い出して思わずムキになった。百合子さんは箸の先を口に挟んだまま悪戯っぽい目で僕を見た。頬が訳も分からず熱かった。
「大体、やる気もない子供を無理やり塾に押しこんで、それで自動的に合格したり成績が上がると思ってる親が浅はかなんです。強制された勉強なんかで、本当の学力がつく訳がない」
「それで、塾の先生をやめたんだ」
「・・・」
「信じてるんだ、あなたはこの仕事を」
 そう言って百合子さんはラメ入りのルージュをひいた唇の隙間から複雑な溜息を洩らした。僕はわざとズルズルと音を立ててふやけた麺を吸いこんだ。

「篠田君は正しい意味の〈指導員〉だな」
 一足早く食事から帰って来た湯殿さんが疎らな髪を撫でつけながら言った。僕は受話器を片手に、今度はどの生徒にフォローの電話をかけようかと迷っていた。
「そんなにアフターばかりしてたら身が持たんだろう。会員が少ないうちはいいかもしれんが」
 湯殿さんはコンテストで何度も入賞している腕利きの営業マンだ。今も、寄りかかった椅子の後ろのロッカーの上にずらっと並んだトロフィーが部屋の中を威圧するように光っている。僕は態勢を立て直そうと首を一回大きく捻った。
「でも、一人で教材に取り組むのって、とても孤独な作業ですよ。誰かが引っ張ってやらないと・・・それが指導員の仕事でしょう」
「分かるよ、確かにセイロンだ」
「じゃあ、湯殿さんは放っとけって言うんですか。高価な教材を売りつけて、あとは生徒がプレッシャーに押し潰されるのを見殺しにしろって」
 湯殿さんは背筋を伸ばして机に肘をついた。珍しく真顔だった。
「なあ篠田君。この仕事は、結局は営業なんだよ。教材という商品を、子供を持つ親という顧客に売ることなんだよ」
「だけど・・・」
「確かにウチは個別指導もやっている。でも、もしとった会員が全員質問に来たりしたら、このシステムはたちまちパンクする。十人に一人か二人、たまたま真面目に取り組んだ生徒が出て来た時のために、保険で講師を置いてるようなもんなんだ」
「それって、騙してるってことじゃないですか、生徒を・・・いつでも質問しに来れるって言いながら」
「騙す?・・・騙すことにはならんだろう。質問に来たければ来れる訳だから」
 湯殿さんは再び大きく椅子に凭れた。背凭れがギーッと嫌な音を立てて軋んだ。
「湯殿さんは何のためにこの仕事をしているんですか」
「決まってるじゃないか。生きるためさ」
「・・・」
「例えば、夜の大海のド真ん中で船が沈没して、キミは誰かと板切れ一枚に縋りついている。だがその板は二人の体重を支えることは出来ない。つまり残された道は相手に板を譲って自分は溺れるか、それとも    」
「異議あり!そのたとえは資本主義の現実を安易に図式化しとるよ」
 戸口から角村氏が現れ、アポ予定を書いた白板の前をスタスタと横切った。やれやれ、また全共闘のお出ましだ、と湯殿さんはせっかく撫でつけた髪を掻きむしった。
「変身よ、変身。分かるか、篠田」
 角村氏は青いジャンパーを昔のテレビドラマのヒーローのような仕草で脱ぎ捨てると、いきなりアジ演説のトーンになった。
「わしら指導員の情熱で生徒を変身させるんよ。義務や親の見栄の為ではなく、己の未来を創造する為に学ぶ気持を起こさせる。それがわしらの仕事じゃろ?」
「・・・」
「まだまだ情熱が足らんのよ。まず、指導員自らが変身せんと」
「篠田君は十分情熱を持ってるわ」
 それまで黙って聞いていた百合子さんがネスカフェを入れた赤いマグカップをトンと机に置いた。
「角ちゃんは、いつも瞬間湯沸し器になって、子供を変身させたつもりになって意気揚々と帰って来るかもしれないけれど、そのあとその子は山のような教材に囲まれて、長くて辛い孤独が待ってるのよ。その気持が分かるからこそ、篠田君は悩んでるんじゃないの。それはホントの情熱があるからでしょ?ヘンシン、ヘンシンって押しつけないでよ」
 僕はあっけにとられて百合子さんの横顔を見た。一日の疲れでまだらになった化粧の頬に、少女のようなソバカスが透けて見えた。

「セイノー!」
 角村氏の掛け声で指導員が一斉に電話を打ち始めた。僕はフォローの電話に疲れ、名簿をチェックするフリをした。その時、所長室の扉が細めに開いて、丸子所長がこっそり手招きをした。僕は青いマーカーにキャップをして席を立った。
「これは、あなたが書いたものですね」
 応接テーブルに残った手つかずのコーヒーカップを脇に寄せ、出来たスペースに所長はA4の紙を広げた。一度しわくちゃにした手紙をコピーしたせいで文字はあちこちに亀裂が入り、のたうち回っていたが、それは確かに僕が生徒に宛てて出した勧誘の手紙だった。
「さっきY高校の教頭先生が見えて、私は厳重な抗議を受けました」
「はあ・・・」
「Y高校では今、あなたは悪辣な詐欺師と言うことになっているそうですよ」
 コトバがヒョコヒョコと頭の中を飛び跳ねた。何かの悪い夢だと僕は必死に思おうとした。だが、何度まばたきをしても、いくらビニールレザーのソファに座り直しても、夢は醒めてくれなかった。
「どんな生徒にそれを出したんです?」
「アポに行って感触がよかった生徒です」
「それはあなたの主観でしょう」
「・・・」
「これが学校中に広まったということは、あなたのその〈感触〉が独りよがりだったということです」
 いつの間にか、仄暗い脳裏にどこかで見た透明な顔の少年が現れ、ケラケラと笑い始めた。
「証拠に残るようなことはするなと、私はいつも言ってますよねえ」
 証拠   一体どんな犯罪の?   自学自習の大切さを訴え、入会したら全力で応援すると書いたこの手紙のどこが証拠?反論のコトバが頭の中で花火のように次々と閃いたが、結局出てきたのはカラッポの溜息だけだった。醒め切ったコーヒーの表面に微細な虫が浮かび、ゆっくりと弧を描くのを僕は奇妙な新鮮さで眺めた。
「当分の間、Y高校との接触は自粛することになりました。もちろん電話も禁止です」
「分かりました・・・すぐに生徒名簿を返します」
「そうそう、その名簿の件ですが」
 逃げるように扉に向かった背中に、蜘蛛の巣のように乾いた、それでいて粘ついた声が絡みついてきた。
「生徒たちの間では今、“犯人狩り”が行われているそうですよ」
「犯人狩り?」
「誰が自分たちの名簿を教材屋に見せたのかということについて、一人の生徒がイジメのターゲットになっているそうです」
「でも、あの名簿は」
「はい。ウチの会社の在庫の名簿だと私も説明はしましたが、一度火がついた生徒たちの暴走を止めるのは難しいと、教頭先生も困っておられました」
「・・・」
「いずれ、その生徒から連絡があるでしょう。そちらの方はあなたに処理をお任せします。何と言っても、〈指導員〉なのですからね」
 度の強い眼鏡の奥で、死んだ魚のような瞳孔が見開いていた。ステンレスのノブがナメクジのように汗ばんだ掌にへばりついた。



 バスの窓から見える闇が濃さを増した。坂道に差しかかって三角形の吊り輪が一斉に揺れ、がらんとした車内に無気味な音を響かせた。処刑場に連れて行かれる囚人のような気分で僕は座席に深く体を埋めた。車体の振動の下から、さっき掛かってきた電話の声が浮かび上がった。
「もしもし、篠田さんですか・・・ちょっと、お聞きしたいことがあります・・・家まで来て下さい・・・今すぐに」
 チキン君は押し殺した声でそう言った。一語ずつ言葉を区切るたびに受話器の奥に底知れない闇が拡がった。冥府の王の声だと僕は思った。数々の綺麗事を並べた挙げ句、信じた者をあっさり裏切った愚かな偽善者に、冥府の王が今、処刑の宣告を下している・・・電話が切れた時、受話器は汗でほとんど溶けかかっていた。

 半月ほど前の日曜日、僕はいつものように〈透明な顔の少年〉の家を探して、住宅街をうろついていた。太陽が真上から人気の絶えた街路を白々と照らしていた。
 少年の家はすぐに見つかった。アポの約束の時間まで、僕はバス停でバスを待つふりをして過ごした。
 玄関のチャイムを押してからややあって、灰色のジャージを履いた少年がボサボサの髪を掻きながら扉を開けた。
「すんません、今、親が留守で」
 この仕事は親子が同席していることが鉄則で、どちらか一方しかいない場合は契約も成立しないから、僕はこれでは意味がないと思って引き返そうとした。すると少年の声が微妙に変化した。
「大丈夫です。僕に任すと親が言ってましたから」
 そう言って彼は薄暗い応接間に僕を招き入れた。プレゼンテーションを始めても蛍光灯をつけようともしない。ただ俯いて、僕の話に機械的に頷くばかりだった。テラスから入る光線が少年の顔を暗い洞のように隈取った。練習のために会社でやっているロールプレイのような奇妙な手応えのなさを感じながらも、僕はどうにかシステムを最後まで説明した。
「分かりました。中々いい勉強方法ですね」
 そう言って彼はやっと顔を上げた。顎の尖った少年だった。
「じゃ、会員になってくれるのかい?」
「でも、そのやり方が実際に有効かどうかは体験してみないと分かりませんよね」
「それは、まあそうだな」
「ウチの学校では、もう誰か入会してるんですか」
「もちろんだ、何人か入って頑張ってるよ」
「例えば誰ですかね」
 少年は何気なさそうに言った。あと一押しだと僕は思った。会員の名前を他言することはタブーだと分かってはいたが、僕はオーダーを上げたい一心で、ついチキン君の名前を口にした。彼が進学校であるY高校の中でもトップクラスの生徒であることも、罪の意識を薄める材料になった。つまり、万一会員であることが友人たちに知れても、チキン君は別に傷つくことはないだろうと・・・。
「そうですか。彼が入ってるのなら安心だ」
 少年はそう言って、尖った顎を何度も満足そうに震わせた。
「とにかく、前向きに検討させてもらいます」
「お母さんには僕から電話を」
「いえ、結論が出たらこちらから連絡しますので、今日はこれでお引き取り下さい」
 気がつくと、僕は無人の通りを歩いていた。太陽はますます白く、靴の先には鳥の糞のような影がこびりついていた。

 チキン君からの電話が切れた途端、聞き耳を立てていた指導員たちが一斉に喋り始めた。
「そういうことなら、所長が一緒に行くべきだな」
 湯殿さんは、生保所長時代の権威を思いだしたような口調で腕組みをしながら言った。
「これは篠田君だけの問題じゃない。営業所全体の信用に関わることだからな」
「いや、丸子所長が一人で行って土下座すりゃあええんよ。大体、やれもっとアポを取れじゃの、オーダーを上げろじゃの、うるさく言うけえ、こういうことになるんよ」
 角村氏は興奮して唾を飛ばした。指導員たちは口々に賛同の意を表し、話題は所長への批判に変質した。恩田さんが野太い声を張り上げた。
「誰か、所長を呼んで来いや」
「いや、その・・・やっぱり僕が行きます・・・これは僕とアイツの問題だから」
 自分が何を言っているのか分からないまま、僕はふらふらと立ち上がった。誰かが「このええカッコしいが」と吐き捨てるように言ったが、強い耳鳴りに打ち消され、僕は壊れたロボットのように意味もなくアタッシュケースを開け閉めした。
「この時間じゃ、帰りはバスがないわよ、きっと」
 コートの袖に腕を通していると、百合子さんがメモ用紙をそっと僕の机に置いた。
「携帯の電話番号書いといて。心配だから」
 僕は、今の自分には無意味としか思えない十一個の数字を、やっとの思いで書き並べた。



 目を閉じて這いつくばった鼻先に、稲妻のように青畳の匂いが掠めた。なぜか脳裏に子供の頃に引っ越した家の、輝かしい未来を丸ごと箱詰めにしたような光景が浮かんだ。そんな牧歌的な映像を打ち消そうとして、僕はねじ込むように頭を畳に擦りつけた。
「もう、ええ。いくら口先で謝って貰った所で、こいつがここに受けた傷は治らんよ」
 赤ら顔の父親が寝間着の上に羽織ったどてらの胸をつついたが、僕にはもう何の言葉も残されてはいなかった。紫檀の座卓が深い川のように目の前に横たわり、その表面にチキン君の青白い顔が鬼火のように揺れていた。
「じゃけえ、わしが言うたろう、この人は営業の人じゃって」
 父親は袂から煙草を取り出して火をつけ、大きく煙を吐き出した。
「営業もんは、商品を売るためならどんなことでもするけえの」
「・・・」
「信じやすいんですよ、この子は。昔から他人様の言葉を何でも真に受けて」
 片方の手首に包帯を巻いた人の良さそうな母親が後を引き取った。鶏にでも突かれたのだろうかと、僕は遠い気持で眺めた。
「この子はね、あなたのことを先生って呼んでたんですよ。先生の言うとおりにすれば絶対に合格できるって・・・あなたに貰った勉強の計画表を机の前の壁に貼ってまでして」
 そう言って母親は無理やり笑顔を作りながら指で目尻を擦った。
「信じてたんですよ、あなたを。それを、こんな形で」
 裏切ってという言葉が声にならないまま、まっすぐに胸を刺し貫いた。情けなさと、訳の分からない悔しさがごちゃ混ぜになって泣きだしそうになるのを僕は必死で堪えた。チキン君はピクリとも動かずにそんな僕の様子を見つめていた。まるで電子顕微鏡で心の奥の細胞の切れ端まで調べられているような気がした。どこか遠くの部屋で柱時計が数知れない時を刻んだ。それを合図に、チキン君がすっと立ち上がった。
「篠田さん、ちょっと話したいことがあります。バス停まで一緒に行きましょう」
 無表情にそう言うと、彼は早くも玄関に出てY高校のイニシャルの入った紺色のコートを羽織った。父親は腕組みをしたまま目を閉じ、母親は呆けたように息子の姿を見つめていた。僕は黙って二人に頭を下げ、それから彼の後を追った。

 最終のバスはとっくに出ている時刻だった。家の裏の、窓のない体育館のような鶏舎の間を通り抜け、チキン君は無言のまま、バス停とは反対の方角に歩きだした。街灯の疎らな坂道で、行く手には黒い森と暗い夜空が広がっていた。数歩先を歩く彼が立ち止まって振り向くたびに、僕は不吉な予感に脅えて立ち竦んだ。
 森を巻くようにカーブした急傾斜の道を上がり切った所で、チキン君は道路からそれ、崖下に向かって半月状に張り出した庇のような空き地に踏みこんだ。枯れ草がサワサワと無気味な音を立てた。緩く傾斜した先の崖の端にはガードレールも何もない。ただぽっかりと剥き出しの暗い夜が口を開けているだけだ。僕はこれから起こることを想像して、金縛りにあったように動けなくなった。その時、「篠田さん、こっち」と場違いに陽気な声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。ここに座れば」
 チキン君はそう言って、木の切り株らしいものに腰を下ろした。その声に促されて、僕は恐る恐る近づいた。
 ほら、と促されて見上げると、頭上には溢れるほどの星空が拡がっていた。闇が濃く、その濃い闇が星の煌めきを際だたせていた。
「ここはですね、つまり僕のプラネタリウムなんです」
 恥ずかしそうな声でチキン君は言った。僕は黙って頷いた。
「あれは、オリオン座・・・僕はコッコー座って呼んでましたけどね、首なしの」
「首なし?」
「小四の時、僕が可愛がってた鶏が病気になって、他のにうつるといけないからって、親が淘汰業者に渡したんです。そのころウチはビニールハウスで平飼いをしてたんですけど、僕は親に反抗して一晩そのハウスで過ごしました。その時、屋根のビニールの裂け目から見えたのがあの星座    だから、僕にとってはコッコー座なんです」
 チキン君は昔を懐かしむような声で淡々と話した。突然、胸の中に見えるはずのない彼の笑顔がくっきりと浮かんだ。僕は今こそ、その〈透明な顔〉を胸に刻もうと、星の闇に目を凝らした。
「オリオンって、ギリシャ神話の勇者の名前ですよね」
「そうだね」
「勇者なんて、今の時代にはいらないんじゃないでしょうか」
「・・・」
「自分が正義の味方になって誰かを傷つける勇気なら、そんなものは僕は絶対に、絶対に欲しくない」
 耳を塞ぐ代わりに目を閉じた僕の心の闇に一瞬、崖から落ちてゆく自分の姿が映った。
その時、でも、とチキン君が呟くように言った。
「勇気には別の意味があるって教えてくれたのは、あなたなんですよ、篠田さん」
「・・・」
「ほら、あの三つ星の下にあるオリオン大星雲。この広大な宇宙の中で、星が一番生まれている場所なんだって、言ったじゃないですか、僕に・・・あそこでは超新星爆発で星が絶え間なく死んでいるけれど、その死が新しい星の誕生に直接結びつくんだって・・・あの話を聞いてから、僕はオリオン座が違う意味で好きになったんです。なんだか自分の弱さに打ちかつ勇気を貰えるような気持になったんです」
そして、チキン君は静かに立ち上がった。
「篠田さん、僕はあなたがいたから、一人でも頑張ってこれたんです。一言、そのお礼が言いたくて・・・」
 そう言って、チキン君は唐突に拳で顔を覆った。
「だから、これからも・・・どうぞ、よろしくお願いします」
 最後は言葉の形が崩れ、清冽な魂の迸りになって僕の胸に流れこんだ。闇の中から嗚咽の声が洩れた。僕は夢中でチキン君の背中をさすった。今の自分に出来るのはこれしかないという思いが心の底から沸き立って、全身に鳥肌がたった。今まで互いに孤立して輝いていた星々の輪郭がみるみる滲み、七色になって暗い夜空に広がった。
「有難う」
「いいえ、僕こそ・・・安心しました」
「何が?」
「来てくれたから。何があったかをちゃんと言葉で話してくれたからです」

 チキン君に別れを告げ、終バスの通った後の県道を歩いている時、突然コートの内ポケットでサイレント・モードにした携帯電話が震えだした。僕はもう一度振り返って指先ほどの大きさになったチキン君に手を振ってから、ゆっくりと携帯の電源を切った。

(了)

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