ある塾講師の呟きA
ある塾講師の呟きB
チキン

特別寄稿:ある塾講師の呟き
緒方 伸之


先日、休暇を利用して久しぶりに帰京したら、さっそくオントシ43歳になる我が妹が「相談」と称して私の逗留する実家に訪ねてきた。妹には、今年中学2年になる息子と、小学6年の娘がいる。見ると妹は娘の方しかつれていない。ははあ、これは中2の息子が何かやらかしたかな、と思った。

私事で恐縮だが、お読みになる方に「予備知識」としてお話しすると、妹は私のような"ひねくれ落ちこぼれ派"とは違って、純粋無垢なナチュラリスト兼正義派である。息子の趣味は野鳥観察(それも日本なんとか鳥学会の会員だそうだ)、娘は宝塚の熱狂的なファンと言うから、彼らの一家がいかに正統派の"テンネン"であるかご推察頂けるだろう。(ちなみに妹の亭主はコンピューターのハードの研究開発に携わる技術者で、妻子の問題にはこれまで一切不介入の原則を貫いてきた賢者でもある)
 その"美しきミセス天然"(ミズと言う語はおみずを連想するので敢えて使いません)が
リュックを下ろしながら目を血走らせて言ったのである。

「お兄ちゃん、タカシ(仮名)が中学に入った途端に勉強しなくなってね。塾に行かせようと思うんだけど、どう思う?」
 一瞬、私は何十年か前の我が身を思い出し、さすが俺の血を引いた立派な甥であると内心親近の情を感じたのだが、そこは二十余年のキャリアを誇る塾の大ベテラン(と、実家には思わせている)、そんなことはおくびにも出さず、おもむろに言った。

「で?・・・本人は塾に行きたがっているのかな?」(筆者注:このフレーズは入塾希望者の面接時に個人塾の経営者が使う常套句である。つまり、あとで生徒の勉強態度が悪化した時のために、あらかじめ伏線として威嚇しているのだ)
「それが、本人は勉強が嫌いだっていうのよ」
「じゃあ、行かせても意味ないじゃないか」
「でも、家ではまったく(この語に妹は異常な力をこめた)机に向かわないのよ。だから、塾に行くだけでも、何もしないよりはマシかと思って」

 このセリフを聞くに至って、私の眠っていたプライドが目を覚ました。一体、塾を何だと思っているんだ、芸を覚えないペットを預ける訓練所じゃないんだぞ・・・だが、真っ向勝負では妹に勝てる見込みは皆無に等しい。その昔、インドシナ半島の辺りで難民が大量に発生した時、「あの人たちの一人でもいいから、我が家に住んで貰おう」と言ってご亭主を困惑させた正義の味方、赤胴鈴子(昭和32年頃流行った赤胴鈴之助という剣戟マンガを知らないヒト、ゴメンナサイ)である。正面から、「勉強という精神の質に関わる作業を、量的に考える事の愚」などと指摘しようものなら、こちらがカウンターパンチで吹っ飛ばされる。そこで私は一つ深呼吸して、思春期の少年心理を解説すると言う、いわば"ゲリラ戦術"をとることにした。これなら、自分が思春期の少年になったことがない妹は反論できないだろう・・・以下に記すのは、その時のやりとりの実録である。


私:男の子はね、今の時代、中学の3年間が一番難しい時期なんだ。

妹:・・・(黙ってぐっとビールのグラスを傾ける)

私:なぜかと言うとね、思うに、今の日本は小学校時代の教育が、学校でも家庭でも少し理想を追いすぎているような気がする。評価も他人と比べない絶対評価だし、個性重視とかエコロジーとか、何かと綺麗事を押しつけ過ぎるんじゃないかな。

妹:(目が怪しく光る)私はタカシに何も押しつけていないわよ。バード・ウオッチングだって自分から言いだしたんだし。

私:(慌てて妹にビールを注ぎながら)いやいや、それが間違ってるって言ってるんじゃないんだ。問題は中学教育との落差にあると思う。

妹:ラクサ?・・・(と言いながら半信半疑の顔で兄のグラスにビールを注ぐ)

私:(グラスを飲み干して一気に)そう、中学に入った途端、子供は中間とか期末試験に追いまくられ、何の説明もなく相対評価の渦中に突っ込まれる。つまり、学習内容は別にしても、他者との競争という社会の現実を突きつけられる訳だ。特に子供の精神的な発達に悪影響を及ぼすと思うのは、悪名高い例の"内申重視"だ。少し改善の動きも出ているけれど、ボクの目から見ると、まだまだ多くの公立中学の先生が「内申に響くぞ」と暗に威嚇して、生徒に無理やり勉強させている。せっかく小学校で行った"個性重視"を、中学で一気に潰しているようなものだ。それに反発して勉強嫌いになるのは、正常な神経を持った子供なら当たり前のことだと思うよ。

妹:タカシは別に反発なんかしていないわよ。そんな深刻に考えるんじゃなくて、ただぼけっとしてるだけ。アニキは昔の自分のことを言ってるんじゃないの?

私:(カウンターをまともに食らい、やはり正面突破は無理だったと反省する。無理やり笑顔を浮かべるながら)でも、心の中では何を考えてるのか分からないぞ。子の心、親知らずだからな。(と暗に少年犯罪を暗示して威嚇する)

妹:そうよねえ、怖いわよねえ。そう言えば近頃何かと私に反発するし・・・確かに何考えてるのか分からない時がある。(と、こういう単純なところが妹の美点である)

私:だろだろ?塾に来る生徒を見ても、本人が意識するにせよしないにせよ、この落差を感じて勉強離れを起こしてる子が多いね。特に男の子に。

妹:なんで男なの?

私:多分、今の社会の閉塞状況を、より身にしみて感じるからじゃないかな。
妹:・・・(コンタクトがずれて目を瞬かせる)
私:つまり戦争ができない時代になって・・・

妹:時代の話はまた今度にして、私が聞きたいのはタカシを塾に行かせるべきかってこと。
私:(演説の腰を折られて不満だが気を取り直し)結論から言えば、行かせない方がいいと思うよ。本人が言いだすまで待つ方が。

妹:なぜ?

私:男ってのは目的意識が強い動物だから、一旦自分の将来像が描ければ、どんどん動きだす。タカシは今、自我が目覚めて、でも一体どっちに進めばいいか分からないんだと思う・・・例えば、自分が鳥類の学者になるんだって決めたら、そのためには今何をすればいいかが見えてくる。その時、学校の授業だけじゃあ学力が不足だと思ったら、自分から言いだすよ、塾に行きたいって。親は「その時」がくるのを辛抱強く待つべきだと、ボクは思うね。大体、塾に来る生徒でも、1年から通ってくる生徒は余り伸びないケースが多い。男の子の場合、一番伸びるのは中2の3学期ぐらいに、本人が「このままじゃ駄目だ」って自覚して入ってくる子だ。

妹:そうなのかあ・・・。(と今日初めて感心したように言う。兄は有頂天になる)

私:そう言う子は、もう目的意識を持っているから、材料を与えさえすれば、どんどん伸びる。教える側にとっては一番楽しい生徒さ。

妹:タカシもそうなればいいんだけど・・・やっぱり心配。だってホントにでれーっとしてテレビばっかり見てるんだもの。

私:ご亭主は何と言ってるんだい?・・・あの人の性格からして、放っておけって言ってるだろ。
妹:それが、中学に入ったら勉強をしっかりやるってタカシと約束したとかで、この前の成績表を見て怒ったのよ。次のテストで悪いようなら、野鳥観察は一時禁止するってまで言いだして。

私:(意外の念に打たれながら)じゃあ、なおさらキミはタカシの側に立って我慢しなければ。親が二人とも同じ小言を言ったら、子供はストレスで参るぞ。

(そこへ、当のタカシとご亭主が現れる。タカシはゴボウのように痩せて日焼けしているが、微かに男臭さを放ち始めている。私は今までの演説を忘れたように、ヘラヘラとご亭主に挨拶し、やおらタカシの手を握る)

私:タカシ、どうだ、バード・ウオッチングの方は。頑張ってるか。

甥:うん・・・おじちゃん、酔ってるでしょう。(と恥をかかせぬ程度に顔を背ける。さすがに男である)

私:いいか、タカシ、これだけは覚えておけよ。
(うん・・・はい・・・と言いながらタカシは着替えを始める)

私:自分の夢だけは裏切るな。(よくもこんな臭いことを言えたものだ)

妹:タカシ、ちょっとおじさんの相手をしててね。お母さん、お料理作るから。
甥:・・・
私:タカシ、男はな、夢に向かってススムノダ。いいか、まっしぐらに進め!

  Be just、and fear not だっ!

(と、それまで黙って聞いていた姪のミエ(仮名)がすっくと立ち上がった)
姪:おじちゃん、女は?・・・女はどうすればいいの?

私:ゴメン、間違えた、男も女も、夢に向かってススムノダ・・・なんちって。

以上、チョー個人的な会話を臆面もなく披瀝させていただきました。万一、関係者に
支障が出ました暁には、ヒラにご容赦下さい。

                              (了)

(Apr.3, 2001)

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