bagumamaさんの文書を読んでいると、自分も海外に暮らしていながら今まで気が付かなかったようなことも多く、考えさせられたり、また同じような体験をして「そうそう」とうなずいていたりすることもあります。 例えば、「土足の話」。「想像を絶する芳香」というところで笑ってしまいましたが、似たような(?)経験は私もありました。1ヶ月程前の話ですが、家にケーブル工事の方が来てくれたのです。家では靴を脱ぐようにしているので、そうお願いしたところ、快く靴を脱いでくれました。彼はしばらくの間、家を出たり入ったりしていたのですが、靴は玄関にきちんと揃えたまま。寒いのにそのまま靴下で外に出ていたことに気が付きました。単に脱ぎ履きが面倒だったのだと思いますが、文句を言うどころか罪悪感を感じてしまい、せめて外用にツッカケでも用意しておいてあげるのだった、と反省したようなことがありました。最近はこちらでも靴を脱ぐ家庭が珍しくなくなってきてはいますが、思わぬところでハッとさせられることもしばしばです。 「目は語る」も、共感する部分が多かったです。私も、こちらではレジで勘定が終われば「サンキュー」などと言ってニッコリするのが習慣になってしまったのですが、いざ日本に帰るとレジでなんと言おうか考えている自分がいます。何も言わないのは失礼、知り合いでもないのに「ありがとう」では馴れ馴れしいし、「どうもありがとうございます」ではちょっと大げさ・・それで適当に会釈して「どうも〜」なんて言ってごまかしていたりします。郷に入れば郷に従えとはいいますし、帰国すると、わざわざ挨拶をしない方が自然なのかなと思うこともありますが、「番外編」で皆さんがおっしゃっている通り、自分から行動に移していくことが大事であると感じました。(Mさん、アメリカ) 目で挨拶をする。と言う記事がありましたね。日本で列車に乗った時、車掌さんが検札にくるでしょう、その際、その車両を出るとき、必ず振り返って一礼、それも制帽をきちんと脱いで、おじぎをしてくれるのです。沢山乗客がいるときは、それでいいのですが、、、岡山ー出雲 間だと、その車両に私だけの時が多く、申し訳なく、あわてて、おじぎをし返すのに、気を使いました。三週間のグリーン席のレイルパスを買っていたので何度も伯備線に乗ったのです。新幹線でも、日本人は知らん顔をしていましたが、外人は殆どがおじぎを返していて、ほほえましくおもいました。目で挨拶をするのは、苦手の日本人、伝統的におじぎが、挨拶として、定着してるのだと実感しました。でも、郷に入れば郷に従う、外人に対して、ふんぞり返っている日本人は、ちょっと理解できませんでした。 (Kさん、スイス) 新企画「アネーゴの談話室」、面白かったです。 普段はなかなか言えない学校教師や親への 辛辣な言葉、痛快でした。特に、大人たちの子供への盲目的な甘やかしへの怒り、これは まったく”異議なーし”です。僕も四半世紀、 この件ではぶーぶーと鼻を鳴らし続けてきました。 (鼻腔が炎症を起こすぐらい・・・) (Sさん、日本) ホームページ、まだ一部ですが読ませていただきました。私は去年の今ごろ、主人は秋にブラジルから帰国し、同じような違和感、憤りを感じていました。 私がまず感じたのは、国全体に漂う無力感、活気と言うか、エネルギーの欠如です。一人一人は真面目に一生懸命生きているのかもしれない。でも、自分と自分の家族を越えた、国や世界、あるいは地球に思いを至らせ危機感を覚える人は少ない。これほどの歴史の転換期に、そしてこれほど日本が変革を迫られている時に。 余裕がない、自分のことで精一杯といわれそうですが、そうなのでしょうか。どんなに自分と自分の家族を守っても、皆の乗っている船自体が沈んでしまったら。。。。。あるいは舵をどうせとりそこねとんでもない方向に行きついてしまったら。。。。。。 どうせ変わらないとあきらめている人々がいれば、何をしてもどうせ忘れられて時がたてば元のさやに収まれると高を括る人が絶えない。これでは子供たちが大きな夢や理想をもてないのは当たり前です。 自分もふくめて大人達には、ベストで次代にバトンタッチする責任があると思います。 日本のすごく良いところ、変えなければならないところ。若い世代のよいところ、彼らにもっと伝えたいこと。そういったことを見定めて行きたい。皆さんの意見お聞きしたいです。 (Aさん、日本) 「小数ができない大学生」 「機会不平等」 「文芸春秋」3月号 親たちよ!教師よ! を読み、なぜ、指導要領が改訂され、どんどん学生の勉強が軽減され、学力が落ちていっているのか、だんだんわかってきました。 高度成長が期待できず、勉強してもいい社会が望めないから。 一言でいえば、「文句をいわない性格のいい羊たち」を多く作るための改革なんだと(三浦朱門は堂々と同様のことを言っています。)思いました。 文芸春秋の記事で、名指しで非難されながらも、あらゆるところで、ジャーナリスト、学者たちが声高高に非難しながらも、一向に文部省は「2002年度教育改訂」をあらためようとしません。 まして、こんな一市民が言っても、どうにもならないとしか思えないのですが、、、、 数学が苦手だった三浦綾子の「二次方程式を知らなくても、ちっとも困らなかった」の一言で、中学の新指導数学から「二次方程式」が消えました。じゃ、古典も漢文も、知らなくても、生活にはこまりませんて言いたいです。 (YUさん、日本) 多くの社会、政治問題を認識しながらも、今のところ何も行動を起こさない自分にもその責任の一端はあるとは思いつつも、何も行動していないのが実情です。でも言えるのは、自分の行動には責任を持ち、少なくとも私は一生懸命に過ごし、それを社会に示す事で、少なくとも私に関わる人々に何かを提供し、また人々から提供されている事を認識しています。大きな事はしていないけれど、少なくとも自分の出来る事で何か貢献できればいいかなと思っています。もし、皆が、あるいは多くの人がそうすれば、除々に周りを変えられるかも・・と思っています。 少なくとも自分は、汚い事、卑劣な人間にはならない事も最低限やっていきたいと思います。ひとりひとりが自覚すれば、世の中も変わっていくと思います。勿論、私がそれら全てを立派にこなしているという訳ではないけれど、そう心がけていれば、少しはいいかな・・と思っています(自己弁護かもしれないけれど)。例えば、まず自分の子育てに責任を持つ事、例えば電車の中でお年よりに席を譲る事、赤ちゃん連れの人、障害者の方に適切な範囲で手を差し伸べる事、小さいけれど、でも、まわりの人に何かを与えられるかもと思っています。 これまでの経験から、物事には押しなべて両面があり、また物事の多くは、見方によってはそれが長所でもあり、でも欠点でもある・・そんな事を感じています。 私は危機感は持ってますが、でも希望も持っています。その渦中(日本の混沌の中)にいると、楽観的になってしまうのかも知れないけれど。今思うのは、まず自分自身を大切にする事が大事だという事です。これは、わがままとか自分勝手とは違います。自分の心身共の健康を生活のpriorityにするという事です。 (Yさん、日本) 文章から、今の日本を憂えている と察します。ドンドンと、外から見た日本を書いて下さい。きっと共鳴者がたくさん出てくるでし ょう。 僕も同じような感じ方をしていますが、もしかするとこの考え方、物の見方は海外にいる駐在員の視線なのかなと思った事があります。生まれながら、外国に暮らしている2世、3世などの視線はちょっとフィーリング (感性)が違うような気がします。 まあ色々な意見があると思いますが、こんな事をやりながら「いい日本」とは何かを 探っていきましょう。 (Oさん、日本) この間 同年代の子育てを終わった友達との会話で、”最近お稽古事に赤ん坊や幼児を他人に預けてまでやっている若い母親たちをどう思う?” ”私たちの若い頃とは随分変わったわねぇ・・・”と まるで姑の様な会話となりました。 今の母親たちは昔に比べ 自分本位で子育ての一番大事な時期で一番楽しい時期を他人任せにしている傾向があるようです。そして 今問題になっている子どもたちの何らかの原因にもなっているような気がするのです。 今こそ こういった問題を現役のお母さん達が真剣に考えるべきだと思うのですがどうも先は長そうです。(Kさん、オランダ) 外国人の中でも、ヨーロッパの人に特に言えそうな気がしているのですが、あの合理性なる考え(もちろん、個人差はありますが)には、共鳴する事がおおいにあります。問題点をはっきりさせる、もっとも効果的対応を考える、反対意見者に納得させると言うより自分の正当生を主張し打ち勝つ、など私が気に入っている外国人魂の利点です。 日本人同士のごく限られた付き合いの中でさえ(であるが故に?)議論の論点が外れ、いかにも日本的といえる結論が見出される時がありますし、特に結論までに至る過程での日本的議論が、際立っているような気がします。例えば、「過去の例によれば」、「国の見解によれば」、「(過度な)我が街のためには」、「波風を立てないためには」、とかの類です。 ”何が問題なんですか、そのために何をしたら良いのですか”という当たり前の言葉が、なかなか通用しません。外国人のあの論点を突く質問と言うのは仕事を進める上で魅力的なやり取りに私には見えます。 それから、外国の例はあまり知りませんが、マスコミの姿勢とマスコミに対する国民の消化度みたいなものですね。例えば、日本の総理が誕生する、その際は子供時代の取材などもして持ち上げをやる。しかし、半年もたたない内に次は引き降ろしをやる、それも徹底的に。国民もこの点は何の咀嚼も無く同一歩調を取る、目出度く引き摺り下ろして次の獲物に取り掛かる、こんなやり取りが続いて何年たったでしょうか。 国民はゲームのようにそれに参加し、満足を得る。そしてそれが長年の間に政権交代の形となって、本当に駄目な政権も或る程度長生きし、良い政権も余り持たない。このゲームにはまった日本は良い意見が反映されるとか、悪いエログロ等が淘汰されるなんていう機能は持ち得ずひたすらこのゲームに熱中して行く。そして、日本全体が世界から見て何か形の違った物体に成って行く、こんな錯覚に陥ります。 ただ幸せなのはこのようなゲームの結果、外国の或る国のように政権交代の度に殺し合いはやらない(それだから、大した政権も出来ないと言う人もおりますが)と、言う事でしょうか。 だから私は個人レベルの考えとして、この日本をどうするという考えより、自分の行動や考えをあるべき方向に持って行くより仕方無いのかな、と思います。資本主義社会は、個々の人々が自分の知恵で豊かになることにより結果として国が豊かになる事だとしたら、我々一人一人がまともな考えで生活することが国全体がまともになる事ではないでしょうか。 そしてこの時の最強の武器が教育(広い意味の)なのでしょう。だから教育は国のためにあるのではなく、個人のためにあり、それが長いあいだに国のためになる、という事になるでしょうか。でも、人間の心の中での悪への誘惑は善へのそれの数十倍であるとか、善への取り組みは10数年かかるが、悪がそれを壊滅するには一日で十分と、誰かが言っておりましたが。国直しのリーダー出現の難しい国のありようとはどのようなものなのでしょうか、特に国民レベルで。 (I さん、日本) |