世界の中の日本を考える

アイデンティティって何?

誰でもないただの私

Spaghetty meatball
ノーラ・コーリ
バグママ


肩書き社会。名前の前にどこに所属し、どんなタイトルを持つか、それによって人々の対応がある程度予測される社会と言い換えることができるだろうか。学歴社会と呼ばれる日本のこれまで一般的だった社会構造も学歴が肩書きの一部とみなされることと無関係ではない。私は「駐在員の妻」である期間が長かったが、日本国内では単に名前で呼ばれていたのに、急に「○○会社の誰々さんの奥さん」になってしまう。駐在員社会には階級性が歴然とあって、同じ社内の駐在員どうしはもちろん、会社どうしの格付けもあり、それらすべて夫の職掌と入社年次で順番が決まっていた(先ごろはこれも変わりつつあるのかもしれないが)。変だなと思いながらも、たいていの妻達は内助の功が夫の成功につながると信じてせっせとよき妻の立場に精を出していた。私は肩書きなど何一つ持たないはずなのに、夫たちの肩書き社会にすっぽりと組み込まれ、自分はどうであれ、その肩書きに見合うような言動を周囲から期待されているというのはけっこう重圧感があった。自分自身でありたい、自分の内なる声にしたがって自由に生きていきたい、そう思うことはたびたびあったが、それでは夫とはなれて一人で何が出来るかと問われたら、たちまち答に窮してしまう。

職業欄。アンケートや種々の申しこみに必ずこの職業欄があり、選択肢がある場合はそこに「主婦」「学生」という項目も含まれる場合が多い。職業が「生計を立てるための仕事」(広辞苑)だとするなら、学生が職業であるはずはないし、主婦も職業とは言えない。自分で書きこむ場合は「無職」ということになるだろうか。主婦業とあたかも職業のように呼ぶ場合もあるが、「私は主婦です」と胸を張って人に言えないのはなぜだろうか(最近は開き直って「私はホームメーカー」などといきがったりしているが)。家事その他、家の中の切り盛りはきちんとこなすのにそれはそれは時間のかかるもの、手間もかかる。ある種の才能も必要だろう。やってもやっても切りがないので適当な所でやめてしまう。なぜだろう。結局、誰からも評価されることは稀で(やって当たり前と思われがち)、ましてやその出来によって昇給、昇進がないからだろうか。もともと給料などないわけだし。

名刺。最近は顔写真入りや、特殊印刷など手の込んだ名刺も増えて、個性を感じさせる。私は名刺という物を一度も持ったことがない。単に必要がなかったからに他ならないが、名刺を持つ必要がないというのはどういうことなのだろうか。(この際仕事に使う名刺はさておくとして。)
私にとって私自身の名刺は意味がない。私以外の人に私という人間をどう受け止めてもらうか、どう受け止めてもらいたいか、その一つの方法が名刺ということになるだろうか。
「私は主婦です」という以外にとりたててアピールできるものがない、だから名刺の必要もないのだとしたら、なんだか淋しい。

私は一体だれ? 一生かかってもその答は見つからないかもしれない。それでも、時々立ち止まって自分自身を見つめてみるのは、無駄ではないだろう。私の周囲にいる友人達はこの問いに対して、さまざまな角度からそれぞれの思いを語ってくれた。一つ一つが示唆に富み、地平線を広げてくれるような気がする。
年代も暮らしている場所もそれぞれ異なる6人の女性たちの、ざっくばらんな会話からそれぞれの熱い思いを感じとっていただけるだろうか。



Sayoko
(キャリアウーマン・日本)

日本の社会はその人自身よりその人の所属やタイトルが重んじられるようだけど、20年ただの主婦をやっていた私は、元々「誰でもないただの私」というところから出発するのが普通と思っています。その点、男性は多くの場合一家の稼ぎ手となって仕事をしなければならないので、なかなか自由な発想は出来ないかもしれません。そういう意味では、ごくごく日本的な社会(今でもそうなのか、私は少々疑問を持っていますが)にあっても、女性の方がはるかにしたたかなのかもしれない・・・とも思う昨今です。 

Mika
(ライター・在ハンガリー)

私はハンガリー人の夫とこちらで暮らしていますが、Sayokoさんの言葉にははっとさせられました。というのも私が最近ぼんやりと考えてるのは、「主婦」のアイデンティティーについてだったのです。
この数年間の仕事の量と、妊娠、出産にかなり疲れた私は「これから専業主婦になります!」宣言を夫にしたのです。もちろん私の性格を知り尽くしている夫は「ふーん」と相手にしてくれませんでしたが。
で、仕事をとっていないので来年はほとんど仕事が入っていないのですが、そうなると私が自分の手で稼ぎ出した収入がないという事になるのですね。そんなのは当たり前のことなのですが、経済的に不安定なハンガリーの生活で自分が家計に貢献できないという事の何という歯がゆさ、そして足が地についていないような不安。夫の収入が何の心配もしないですむような額だったら、私もこんなことは思わないのかしら?とか、でもいつ何が起こる分からない人生の中で、自分が生きていく手段を持っていないというのはどういう事なのかしら?とか、モヤモヤと考えていたのでした。

「もともと誰でもないただの私」、なんだかとても素敵な言葉に思いました。「ただの私」を大切に思ってくれる人がどれだけ周りにいるかで、その人の人生も変わってくるように思います。

Emi
(主婦・在タイ)

"主婦のアイデンティティ"ねえ…。27年専業主婦の私、深刻に考えることを避けてきたトピックその1です。おいおい考えてみます。
ところで、ネーム・カードだけど、私は、マレーシア時代以来今も使っています。
住所・電話番号・メールアドレスが入っているだけで、もちろん肩書きなんてありません。
とりわけ現在暮らしているタイの住所なんて、ややこしくて、「連絡先教えて」という場面で、このカードが重宝しています。(おかげで、いつになっても、カードなしで住所が書けません)

出会いがあって、それを今後につなげたいと思う相手に渡します。相手は既に私を知ってくれた人。その人の思う私がそのカードに内臓されている、と考えます。ビジネスをする人の持つ名刺と全く違いますね。でも、違った意味でのというか、IDではあります。
そのただのネーム・カードに ただの主婦というだけでない、顔が少しでも見えていたらいいな、と思っています。

Sayoko

何気なく発した一言に真摯に反応してくださってありがとうございます。 とても嬉しかった。これまた「ただの私」が発した言葉が、誰かに受け止めて貰えたっていう嬉しさですね。

多方面で活躍していらっしゃるMikaさんをして、いえ、だからこそ? ああ自分と同じ思いを持っていらっしゃるのだな・・って、ちょっと感動してしまいました。特に私は子供がいないし、現在自分の家庭もない身分なので、世の中での不安定感は主婦をしていた時とは比べ物にならないほどヒタヒタと迫ってくるものがあります。でも、幸い等身大の自分をありのまま受け入れてくれる小さな空間に居場所を見つけ、それなりに一生懸命生きているという実感だけが、逆に今とても自分への自信になっていて、幸せだと感じることの多い毎日なのです。 もし子供がいたら別の意味で、自分のアイデンティティにとってもっと楽だったかもしれない・・と何度も何度も考えました。
色々な状況、色々な場所、それぞれに「ただの私」が大切に思われることがそれぞれの幸せ・・・ってことかしら。
主婦のアイデンティティの問題は、Emiさんもおっしゃっているようにものすごく大きなテーマに思えます。もっとも主婦であろうがなかろうが、一個の人間として生きていくうえで、この問題はどこまでも一緒だと感じています。 

Emiさんのネーム・カードのお話、「その人の思う私がカードに内臓」ってすばらしい言葉ですね。 「ただの私」の実質と、社会への発信の「カード」(肩書きではなく、最低限の所在という意味での)が見事にリンクして、とても素敵だなと思いました。

Yumi
(ライター・在イギリス)

「ただの私」、これは私のとても好きな本のタイトルなんです。オノ・ヨーコのエッセイ集なのですが、彼女の場合は「世界中から本来の自分とはかけ離れた形でアイデンティティを増幅されてしまった私にとっての、ただの私」という観点なので、方向的には逆かもしれませんが、シンプルなのにすごく訴えるタイトルだと思います。

本自体を、もう一冊の「グレープフルーツ」という彼女の傑作詩集(これを読んで、私にとっては永遠のアイドルであるジョン・レノンが彼女に惚れた理由がよく分かりました。暖かい大海原に包まれているような、彼女の包容力とスケールの大きさ、才能の凄さが分かる詩集です)とともに、何年も前に友達に貸したきり戻ってこないし、読んだのは10年近く前なので詳細を覚えてなくてごめんなさい。

Nanako
(学生・在オランダ)

「誰でもないただの私」。 私も最近まったく同じようなことを考えていたのでMikaさんの考えていらしたことにもとっても共感しました。私は現在日本の大学を休学してアムステルダム大学で勉強していますが、ここにやってきてから半年の間に考え続けたことをお話します。

私はマレーシアから日本に帰国して以来、無条件に「帰国子女」という枠組みに入れられてしまうことや、時には大学名で「私」を判断されてしまうことに対してもすごく抵抗を感じていました。日本社会にどうしても所属しきれないような、そんな違和感を抱えオランダにやってきたらやっぱり私はオランダには所属する場なんてなかったのですよね(笑)
でも同じような悩みを抱えてきた日本の「キコク」友達にメールで「私には所属する場所がないのよー」と愚痴をこぼしたら「結局自分の所属するところなんて自分自身でしかないんだよ」と一喝され、その通りかもしれない、と思い返しました。
それでも色々考え込んでしまう性格は変わらず、オランダでの生活に慣れてきたら今度は今まで自分を悩ませてきた「キコク、H大生」という「アイデンティティ」から解放されたら、結局自分が「何者でもなくなってしまった」ことに戸惑ったのです。

同じアムステルダム大学に留学している博士課程の日本人の方によく悩みをきいてもらって居たのですが、「自分のアイデンティティ」について考え込んでいる頃、彼に「Nちゃんは自分を言説化しすぎていて逆に自分を雁字搦めにしている」と言われたことがあります。その通りだったと思います。

最近読んだスチュアート・ホール(カルチュラルスタディースという学問の「指導者的存在」らしいです)という人の論文(スチュアート・ホール、ポール・ドゥ・ゲイ編「カルチュラル・アイデンティティの諸問題〜誰がアイデンティティを必要とするのか〜」大村書店2001年第一章)に、アイデンティティにとって「『われわれは誰なのか』『われわれはどこからきたのか』が問題なのではない。重要なことはわれわれは何になることができるのか、われわれはどのように表象されてきたのか、他者による表象が自分達自身をどのように表象できるかにどれほど左右されているのかということである」という記述がありました。なんだか「目からウロコ」状態でした。

結局「自分は何者なのか」なんていくら考えても答えなんて出てこなかったし、混乱するだけでした。「私」は「私」、それが私のたどり着いた結論でもあります。(といってもよく気持ちは揺らぎますが)それでもやはり確固とした「私」という存在を作り上げるのって、もしかしたら一番大変なことなのかもしれませんね。どんな状況においても「私は私」だと言い切れる強い「自分」でいなければいけないのですから。
「もともと誰でもないただの私」とさらりと言えるSayokoさん、「さすが」という感じです。

「自分」の存在がわからなくなって非常に落ち込んだ時期全てに対して否定的になってしまいがちだったのですが、そんな時にユダヤ系アメリカ人のdiaspora的経験をしている友人に「悲観的なことは悪いことじゃない。ただ大切なのは無理に楽観的になろうとすることではなく、常に'appreciation'という気持ちを忘れないようにすることなんだ。」と言われました。人間誰しも色々な問題や悩み、孤独を抱えて生きているのは同じで、それでも皆大切な人を思いやり、そして大切な人から思いやられながら生きているのではないかと最近思うのです。そういう風に思えるようになったら、なんだかとても前向きになれた気がします。私達が生まれてきた意味なんて考えてもキリがありませんが、世界には色々な考えや価値観をもって精一杯生きている人が居る、一人一人の人生なんてちっぽけなものだけど、それでもたくさんの出会いを通じて色々な人の存在や価値観を知り、色々なものを学びあい、それぞれをrespectする。それで私達が生きている意味って十分過ぎるほどあるのではないかな、と最近思います。

Risa
(学生・在アメリカ)

「誰でもないただの私」、とても素敵な言葉ですね。大学浪人時代から心の隅に巣くってきた思いを皆さんが代弁して下さった気がします。
Nanakoさん、同じ留学生同士、逆境に負けずがんばっていきましょうね! 私の座右の銘は努力と根性です!!
今は、論文を書くだけになりましたが、コースワークとTA(Teaching Assistant)に追いまくられていた頃の生活を思い出します。実に「 努力と根性」だけの日々でした、私も。

今は、「忍耐(be patient) --> 明るい未来が待っている!」が座右の銘です。

Nanako

いい言葉ですね!今私の机の前には「努力・根性」と書いた紙が張ってあるのですが、その横に「忍耐」も付け加えようかな・・と考えている今日この頃です。最近「自分の能力を見定める」ことの難しさに悩み(いつも何かしら悩んでます。基本的にネガティブなので。)何も手に付かなくなりかけたのですが、やっぱり「まだ今の時点では自分の限界を設定してしまうのはもったいない!」という結論に達し、「明るい未来」を信じつつ「もうちょっと努力しなきゃ」と思う毎日です。お世話になっている例の博士課程の方も、「周りには途中で諦めて学問の道を諦めてしまう人が大勢いるけれど、自分も常に迷いを抱えつつも自分のやりたいことを突き詰めている」というようなことを言っていました。本当に「自分」を貫くのは難しいですし、実際周りに流されそうになることも多々あります。Phdの方もいっていましたが、毎日が「強い自分であるための戦いの日々」ですね!

Risa

私も、まだまだ暗いトンネルからは抜け出していない「途上人」です。 つまり、「未熟者」ってことですね。でも、これって、すごく日本的な謙遜の言い回しのような気がするので、敢えて「途上人」と言う言葉を使わせて下さいませ。ま、人間、死ぬまで「習い続ける」ってところで「途上人」、カナ?そして、私こそ胸を張れるぐらいのネガティブ人間です。今は、「これでは残りの人生暗いワ!」と、どんなことがあってもhappyであるよう、ポジティブ人間に改造中です。

余りに当り前のことですが、人はhappyであるのが当然なんですよね。どうも「勤勉、努力、根性、忍耐、、、」といった日本語はhappyとは逆の「おしん(テレビドラマにありましたよねぇ)の世界」に人を引きずり込む魔者のようです。

Nanakoさんの言葉、
最近「自分の能力を見定める」ことの難しさに悩み(いつも何かしら悩んでます。基本的にネガティブなので。)何も手に付かなくなりかけたのですが、やっぱり「まだ今の時点では自分の限界を設定してしまうのはもったいない!」という結論に達し、「明るい未来」を信じつつ「もうちょっと努力しなきゃ」と思う毎日です。
その通りだと思います。運動の選手(特におすもうさん)が引退のとき「体力、気力の限界を感じました。」って言うけど、これって当たっていると思います。死ぬまで「自分の限界を設定する」必要はなくて、自分が「満足、幸福」を感じていて「体力、気力」もあるうちはまだまだなのだと思います。 「知力&体力&気力」の充実こそ明日への力。

最近の私のもう一つの座右の銘は「ひたすらの人」。(椎名誠の短編「土星を見る人」にでてくる言葉なのですけど。)何かを「ひたすら」&「たんたんと」やりつづけて、何十年という人ですね。 ノーベル賞の田中さん、ってこの部類の人じゃないかしら。。いいわあ、田中さん。

Mika

Nanakoさんは先輩から「自分を言説化しすぎていて逆に自分を雁字搦めにしている」って言われたわけだけど、私は思うのですが、自分をどう理解していくかは、人によってきっといろいろですよね。話ながら自分を整理していく人もいればそれを聞きながら自分を客観視する人もいる。ものを書きながら考えるたり、音楽を作って自分を表現する人がいれば、それを読んで、聞いて自分の中の知らない部分を掘り起こされる人もいる。方法は、料理だったり、家事だったり、それこそいろいろだと思います。要は、自分を理解する方法と自分を表現する方法を、全ての人が持っていることが大切だということではないでしょうかね。人によってはそれが職業や専門につながっていくでしょうし。言説化して自分を理解しようと躍起になる時期というのも必要なのでは?

Nanako

その通りだと思います。自分を客観的に見つめることはとても大切ですし、必要不可欠なことだと思うのですが、私の場合「自分にはこういう欠点があって、だからこういう考え方をして、こういう行動をする」「自分にはこういう経験があるからこういう考え方しかできない」といういかに自分が「弱くて駄目な人間であるか」という今では笑ってしまうようなネガティブな言説をつくりあげていたのですよね。そうしていると本当に自分はそういう人間でしかありえない気がしてきてはっきりいって悪循環でした。結局自分のコンプレックスの原因を知りつつ、自分の言説化をして自分を正当化して自分を変える努力をすることを怠っていたのかもしれない、と今では思っています。自分で今まで徹底して作り上げてきた言説を一回崩してみたら、自分の「何者でもない」姿にとまどったのですが、次第に周りも見えて始めてきた感じもしますし、また最近では「自分を言説化してきた自分の言説化」を始めたようです。(自分では自覚はなかったのですが、どうやら無意識のうちに始めていたみたいです)これからはどうやってポジティブな「自分」を作り上げていくかが目下の課題と言った感じでしょうか・・。最近は「ネガティブ日記」をつけたりして、後で読み返してネガティブな自分を自分で笑い飛ばして、落ち込む波がやってきても「あー、ヤツがやって来たよー」とか一人でノリツッコミ状態で(笑)「またまた落ち込んでいる自分」を案外楽しんだりしています。けっこう面白いですよ。

Mika

今の子ども達は幼少児からテレビやゲームの前に座っている時間が長く、また、生活環境の問題もあっていろいろなことを体験する時間がないことが問題視されていますね。この結果として、自己表現や自分を知るための、自分に合った方法を知らないまま大人になってしまう。自分はなんだろうと思い始めてもその問題をどう扱っていいか分からない人が増えていっている。だから精神的にしんどい若者が急増しているような気がします。

私は、結婚してハンガリーに引っ越し、しばらくして一番ショックを受けたのは「日本から私がいなくなっても誰も困らない」という現実に気がついたことでした。もちろん親達は娘が遠くに行ってしまって悲しいでしょうが、それ以外では私一人がどこにいようと、世の中はなにも変わらない。この当たり前の事に気がついた時から、私ってなんだろう、何の為にいるんだろうってはじめて本気で考え始めたような気がします。
で、じゃあどこに自分を本当に理解してくれる人がいるんだろうか・…と考え、夫に「どうしてわたしを理解してくれないのか」と八つ当たりしてみたり、子どもに期待を寄せてみたりしてみたのですが、そこで気がついたことは、またまた当たり前の事なんですが、自分を本当に知っているのは自分だ、という事だったんですね。でも、この自分というのが厄介で、この人もしょっちゅう新しい顔を現すんです。夫との関係を経て私自身はずいぶん変わったし、子どもとの関係を経て行く中でも、そして生きていく年数が増えるにしたがって、自分自身が変わっていくんです。私が一番てこずっているのは自分自身を知る事で、面白がりつつも扱いを持て余しているのも自分自身のような気がします。

「それなりに一生懸命生きているという実感だけが、逆に今とても自分への自信になっていて、幸せだと感じることの多い毎日なのです。」というSayokoさんのように、私がこう思えるようになるのはいつのことなんでしょう。

ハンガリーに来てからずっと頭にあるのは、「いつかは一人になってしまう」という事です。高齢の姑と同居しているからでしょうか、彼女を見ていると、人間最後には一人ぼっちになるんだなと、いつも思います。家族という集団の中にいても、イエ、集団の中にいるからこそ感じる孤独もあるでしょうね。
夫がいても、子どもがいても感じる孤独があります。味噌汁をのんで、納豆を食べて「おいしいねー」と言い合えない孤独。バカバカしい例のように思われるかもしれませんが、こんな時、「あー家族の中で日本人は私一人なんだなー」と思ってしまいます。
年とったら、このハンガリーで出きるだけ孤独を感じないですむように、日本人のための「老人憩いの家」でも開こうかと今から考えているんです。(本当に)

Yumi

アイデンティティについて考えさせるきっかけや状況って、本当にそれぞれですね。私の場合ですが、いちばん強烈だったのは、東京で好きな仕事を思い切りしていて、それなりに周囲にも尊重されていた自分が、海外移住と出産と夫の転勤の繰り返しを境に、いきなり存在しなくなってしまったときでしょうか。東京にいる間は自分と似たような考え方、テンションの人ばかりと過ごしていたので、海外に来て最初に知り合った人たちとは全然考え方にも生き方にも接点が持てなくて、本当に孤独を感じました。それになんと言うのか、自分の売りというのが「普段はボケてるけど、仕事となるとキレ者」みたいな昼行灯タイプであったのが、何の事はない、仕事を取ったただの私って、「ただのボケ」(しかも童顔で)だったと気づいたときはガーンときたものです。

それで随分鬱っぽくなったりしたものですが、日本を出て5年目にして、今は色々と気持ちの上で折り合いがついていて、昔からは想像のつかない自分というものを知ることができました。

昔から、仕事、仕事ってなんでそんなに私は仕事するのがすきなんだろう、そういえばつきあっていた男性(今の夫も含む)にはことごとく「君が一生懸命仕事している姿は素敵だし、そういうところがいいなと思うんだけど、でも僕と仕事と君はどっちが大事なの?」と問い詰められてましたっけ、わはは。

私の場合は、仕事と自分が渾然一体となっていて、いろいろな制約から思い通りの内容の仕事が出来ないことが不満だったのですが、仕事の内容そのものと、「他人からの依頼に応えて、最善を尽くして、出来を相手に喜んでもらって、自分も評価を受けて、それに報酬をいただく」というプロセスを分けて考えられるようになって、じつはそのプロセス自体も好きだということに気づきました。ゆくゆくは内容そのものを追求していきたいのですが、現在自分が置かれた状況で、できる範囲で、そのプロセスだけでも楽しんでいければ、しばらくは満足していられるのかな、というような(あー何いっているのか意味不明ですいません)ところです。そうしたら、自分と仕事の境界線がすっきりして、新たに加わった、家族がいての自分、おかーちゃんである自分というものも棲み分けができてきたようです。

Sayoko

い〜えっ、ぜ〜んぜん意味不明じゃありません。 ものすごくよくわかる。 プロセスが好きって、ある意味一番大切なような気がします。 私自身も今仕事をしていて、ほとんど「趣味で仕事してるなぁ」って思ってます。思い込むと止まらなくなるのはYumiさんに負けないかもしれない。結局家族のために中途できりあげなくちゃならない、なんていう器用な切り替えができないから、むしろ今ひとりでよかったなぁってしみじみ思うんですよね。あ、これは脱線。

「そうしたら、自分と仕事の境界線がすっきりして、新たに加わった、家族がいての自分、おかーちゃんである自分というものも棲み分けができてきたようです」というYumiさんは、すごいねぇ。「折り合い」「切り分け」「棲み分け」・・・感覚的にすごくよくわかるけど、実践できてるYumiさんを尊敬します。結局自分にむけての「余裕」っていうことでしょうか。