世界の中の日本を考える

アイデンティティって何?

誰でもないただの私

Spaghetty meatball
ノーラ・コーリ

バグママ


不在配達。郵便局に引き取りに行くと、ものによっては本人確認のために運転免許証や健康保険証の提示が必要になる。
国外に旅行するにはパスポートがいる。
国外で生活したり仕事をするには、滞在許可証や労働許可証がいる。

これらもアイデンティティ。

もう一つのアイデンティティは自己同一性、つまり「ある人の一貫性が成り立ち、それが時間的・空間的に他者や共同体にも認められていること」(広辞苑)。かみ砕けば、個人なり、グループ、共同体がある特定の性質を持つことから、他の人たちとは
違うことを認識すること、と言えるかも知れない。


国外で暮らしていると、常にこの「周りの人とは違う」という感覚がどこかしらつきまとう。
その時、自分で気づく「違い」を追認し、それを自身のよりどころとするか、逆に段々に同化し、違いが薄まって、最後は同じになってしまうのか。
国際結婚カップルは、日々その葛藤と直面しているのではないかと想像する。
また、両親の転勤で外国の教育を長いこと受けると、両親はこのアイデンティティとして「日本人」でも、本人はどんなアイデンティティを持つようになるのだろう。

さらに、私はパスポートを一つしか持っていないが、二つ以上の国のパスポートを持っている人もいる。
日本では二重国籍を認めていないそうだが、それを認める国もあるらしい。その場合、自分はどこの国籍か、という問いは本人の中ではあまり生じないのだろうか。この問題とアイデンティティとは別なのだろうか・・・

(Feb. 18, 2001)

「アイデンティティー--徒然なるままに」
Spaghetty meatballより
アイデンティティー"identity"って、何?辞書には「自己同一性・本人であること、身元、主体性」ってあるけど。とっても曖昧な言葉だと思う。自分"self"って何?って置き換えて考えてみるのもよさそう。もちろん学問的定義はさておいて。

「自分」っていろいろな物から構成されていて、様々な対象物にたいして価値観を持っている。置かれた環境に対して、少しずつ変わるものだし、変わっていいもの。「自分」の核になるものはきっとあまり変わらないのだろうけど。何が大切かって、「自分」を構成している物を知ること。それは日本という地域にある文化、制度に影響されて育ってきたものだし、家庭の文化により作られたものだし。「日本人は・・・。」と言う民族的特性に当てはまるかもしれないし、ずれているかもしれない。「xx県民は・・・。」ではどうだろう。「xx家の人は・・・。」なのかもしれない。「xxという社会的カテゴリーの人は・・・。」なのかもしれない。生まれてこの方の全ての環境が「自分」とそれを構成する価値観を作っているのだろう。

アメリカに暮らして7年。何かをしたら、「日本人は・・・。」または、「日本人だから・・・。」と思われると思っていた、つまり、日の丸を背中にしょっているような思いがあった。けど、それは逆に「日本人的」思考なのだと気が付いた。私の暮らすアメリカ社会では、日本人、外国人だからといってさほどの特別視はしない。「人種差別」がないと言うのとは異なるが。もしあるとすれば、「アジア人」という範疇に入れられるだろう。相手が「日本人」というレッテルを問題にしなければ、こちらは「日本人アイデンティティー」では勝負できなくなる。では、「日本人アイデンティティー」はどこに行ってしまうのだろう。とどまるところ、「自分」の中にある所謂「日本人」的な価値観を見つけ、譲歩できない大切な価値観として尊重していくだけのことだろう。

自分の国として「日本」という国家、その制度、文化、そこに生活する人間に対して特別な思つ。それは故郷に対する愛情、郷愁なのかも知れない。裏を返せば、この思いこそが「日本人としてのアイデンティティー」を持っている証なのかも知れない。
(Feb.23. 2001)

アイデンティティ: ノーラ・コーリさん
わたしはアイデンティティーはみんなほしがるものだと思う
それってけっこう大切じゃないかな?

おそらく人はわたしを日本人と見る

とにかくなん人かみんな枠にいれようとするよ。

だからそれでいいよ、相手の見方は

けどね、わたしはわたし
他の人がどういようと
わたしはわたし自身のアイデンティティーの定義の中で生きていく

海外へ行くと
I am japanese をしょっちゅう言う
なぜって 聞かれるから
日本にいても
カタカナ名を使ってるから、正真正銘の日本国籍の日本人です
といっている

けど自分の中では
そういうことにはこだわらない

そういうのは相手のため

自分のためのこだわりは
一番好きな人から自分がどう見られているかってこと

他人の自分のアイデンティティー評価で気になるのはそれだけ
(Feb.19, 2001)


アイデンティティ: バグママの場合
言うは易く、行うは難し」に、我が家族が動物園の動物よりも珍しがられたと書いた。
何しろ、初めての外国生活がこうだったから、それ以後、自分たちが周囲の風景に溶け込んでいない、ある種の異質な存在かも知れないと思いつつ暮らしていた。言葉の壁があるから、なかなかご近所さんと親しくなれなかったが、小さい子どもがいるのは、こういう時にちょうどよい話題を提供してくれる。「チョク・ギュゼル! (とってもかわいい_)」と言ってあやしてくれたり、お菓子を分けてくれたり。そして、会話となると、「日本はどんな国? 」ほとんどが私に対する質問ではなくて、「日本」の国に関する質問だった。どこへ行っても大抵同じ。

結局、私達は個人としてより、「日本人」として見られているのだった。私が何か変なことをすれば、それは即「日本人はこんなことをする国民だ」と解釈される。だから、いつも日本人として恥ずかしくない態度で暮らそう。そう思ってやってきた。

その際、何が私の基準とする日本人なのか。
最初から基準が厳然とあったわけではない。第一、日本で暮らしていた頃は、こんなこと滅多に考えなかったし、誰もそんなことは話題にしなかったと思う。周りが皆日本人なら、別に取り立てて「日本人とは?」などと考えてみる必要がないからだろう。

外国にいると、まず外見の違いが「私はここでは外国人だ」と意識させるが、その他にも言葉、生活習慣、食べ物など、外見の違いの割にはたいして変わらないじゃない、とはなかなか思えない事がたくさんある。その時に「私はやっぱり日本人だ」と思う。それでも、努力してなるべくその国の中に溶け込もうとする。だが、決してその国の人にはなれない。人々がどんなに暖かく迎え入れてくれても、いつまでも外国人であることには変わりない。同時に長いこと日本を離れていると、日本の習慣などはどんどん忘れ、ものの考え方も変わってくる。たまに一時帰国すると、生まれ育った国なのに、違和感を覚える。

かくして、根無し草に近づいていく・・・
(Feb.18, 2001)