新学習指導要領は一旦振り出しに戻した方がよいのでは?  
→そうこうしているうちに、実施の時期を迎えてしまいました。この項は時効ですね。

【私たちは2002年度に予定されている新指導要領の実施中止を求めます!!
というサイトを偶然に見つけた。http://www.naee2002.gr.jp/

約10年ごとに改訂されている指導要領だが、今回2002年度完全実施(高校は2003年度から)に向けて、既に一昨年度あたりから準備段階に入っていると聞いていた。もし、いまからでも中止できるなら、中止して、日本の将来を決定づける教育の根幹について、もう一度一人一人が考えてみた方がいいのではないだろうか

文部省政策課長である寺脇 研氏による「ゆとり教育こそ『個性の時代』に求められる人間を作る」(*)を読んでみると、目指す目的は素晴らしいと思うのだが、どこかで論点がずれているような気がしてならない。(*文芸春秋社「日本の論点2001」論点61ゆとり教育で学力は落ちるか)

「例えば、これからの時代は個性が尊重され、それを活かすことが生き残りの条件になってきた。そのために、生徒が全く同じ内容の強化を学習するという従来の方法を改めなければならない」、と寺脇氏は言う。確かにそうだと思う。だが、寺脇氏のその後の説明では、結局「選択のゆとり」「反芻のゆとり」「気持ちのゆとり」が画一的に生徒に与えられるという印象しか残らない。第一、戦後この方ずっと「個性」「個性」と言って、主体性のない「個性」ばかりを標榜して来た結果が現状なのではないだろうか。

ゆとりを実現すべく、教育内容を3割減らす、これだって、なぜ勉強が好きな子も苦手な子も3割減らすのか。減らした部分は高校2年の半ばくらいまでにゆっくりと習得させる、そこにゆとりが生まれると言うが、ゆとりってのんびりとは違うだろうに・・・いままでゆとりがない、ゆとりがないと言われてきた日本社会、決めるのは自分自身、人と同じである必要はない、という単純な原点に帰れば相当部分解決するのではないだろうか。

同じ「日本の論点2001」に細野昌宏氏の書いた「学力低下は学生のせいではない。原因は教科書と講義のまずさにあり」という一文は大変興味深かった。わかりにくい教科書と演出無しの面白くもない講義だから学生は勉強しなくなると細野氏は説く。ここでは大学の授業について書かれているが、これを「教科書と授業」に置き換えれば、そのまま小学校や中学にも当てはまるのではないか。

子どもがマレーシアとスイスのインターナショナルスクールで9年生から12年生まで学んでいた時の教科書は、学校から一年間貸し出されるもので、分厚く、しっかりした教科書だった。全部に目を通したわけではないが、どれも詳しく書かれ、仮に授業に出られなくても、教科書を読めば一応理解できるようになっていた。つまり、先生の仕事は、教科書の舌足らずを補うために、準教科書並みに黒板に教科内容を書いて生徒全員に「伝達」するのではなく、生徒が教科書だけでは理解できない部分や、生徒からの質問に対してピンポイントで教えることと言えるだろうか。それ故、授業自体も担当した先生によって内容にばらつきはあったが、歴史などは、地域や年代を絞ってかなり詳しく、考えさせる授業をやっていた。先生の自主性、創造性などがもっと発揮できるようなシステムなら、授業は自ずから面白くなるのではないだろうか。

さらに、オランダの学校制度を紹介すると、学年ごとのカリキュラムを国が決める制度はなく、政府の規定に基づき、各学校ごとでワークプランが作られる。宗教、教育理念などによって、さまざまな学校があり、親は、教育内容を見て学校を選ぶことができる。お仕着せではなく、まさにテーラーメイドと言えるかも知れない。( revised-Mar. 1, 2001)



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