前例という名の化け物

日経新聞「教育を問う」シリーズ を読んで

「前例のないことはやりたくない」。首都圏のある公立中学校の職員室。生徒指導や授業の改革などの提案をしても、年長の同僚は相手にしようとさえしない。30歳代の教員は「対案を出せもしないのに」と憤まんやるかたない。 (日経新聞10/28)

生徒に「教える」というのはどういうことか、ただ知識を伝授するだけなら、テレビでもコンピューターでも代役になる。いま必要とされているのは、人間としての「教師」なのではないだろうか。それなら、前例のないことに挑む才覚、新たな境地を切り開く勇気、生徒達と一緒に悩み、工夫する姿勢が求められるのではないだろうか。

個人的な体験だが、全てに横並び志向の強い日本人社会で、私は新しいことへの試みを十分出来ずに終わったことが何度かある。学校PTAや、日本人の集まりでのこと。それは、後の人があなたと同じことが出来ないかも知れないからそこまでやらないで欲しい、という周囲の意見からだった。自慢していると受け取らないでいただきたいのだが、私は前例をうち破った、そして新たな前例となることを前提に後に続く人のことも考えることを強いられたわけだ。前例なんて要らない。その時その時、できることをすればいい。違うだろうか?

「前例がない」、この言葉は時として新しいことへの挑戦を回避する為のちょうど手頃な口実として使われていないだろうか。同じように「前例に従う」のは、チャレンジしないことへの口実に使われていないだろうか。

戦後、あらゆる点で戦前の「前例」は否定された。その時私たちは「アメリカ」という「前例」を見つけてそれに従った。従ったように見えたが、それは表面的に都合のいいところだけ真似ただけだった。アメリカの精神も、そのアメリカの前身(あるいは対極か?)とも言うべきヨーロッパの精神も学ばなかった。「もうアメリカに学ぶものはない」とまで言い切る人たちもでてきた。価値観が混沌として、従来の基準では計れない事例も数多くある。こんな時代だからこそ、改革に向けて、前例に縛られず行動してみようではないか。 (Jan. 22, 2001)



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