バグママ流・みてある記

戦闘場面や暴力シーン、とにかく血を見るのは嫌いなのに、歴史上の名だたる会戦を題材にした物語大好き、両軍の将が知恵を絞っていかにして相手を組み伏せるか、その駆け引きの妙に私はおもしろさを感じてしまいます。ある時、塩野七生さんのヴェネツィア共和国対オスマントルコの因縁の戦いを描いた三部作「コンスタンチノープルの陥落」「ロードス島攻防記」「レパントの海戦」を心躍らせて読みました。次いで「海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年」で、すっかり塩野ファンになると同時にヴェネツィア共和国の虜になってしまったのです。以来ヴェネツィアは、一度は訪ねてみたい街になり、これまで何度も旅行計画を立てましたが、大抵ホテル事情や、時期的な問題などで断念。何しろ、東西4.2キロ、南北2.8キロという限られたスペース、ホテルの数には限りがある上、真夏などに行こうものなら、冷房など完備されていないホテルも多く、停滞する水路の水はどぶに近い状態になると聞くと、如何に憧れていたとはいえ、やめておこうか…ということになってしまうのでした。昨秋、15年来の念願叶い、ヴェネツィア共和国を生んだ街・ヴェネツィアを訪ねました。
パラッツォ・ドュカーレ/
巨人の階段

「海の都の物語」の出だしに描かれる葦の茂る浅瀬。ここが歴史上稀にみる完全なる共和制を一千年の長きに亘って維持した都市国家の発祥の地です。1,500年ほど前に蛮族の襲来から逃れるために、住むには一見して適さないような場所に移り住んだ人々は、他では類を見ない海上型都市国家を作り、ドージェ(総督)を戴く共和制を貫きました。

海軍力でオスマントルコを何度も痛めつけ、ヨーロッパの他の強大な君主国家を向こうに回し、時には権謀術数を操りながら、堂々と互角に渉るその交渉力で、長い間地中海の制海権を握った国。国家を一人の男性に喩えるのはおかしな話ですが、女性としてはこの男性的な国家にたまらなく惹かれてしまいます
ムラノのガラスやベネチアン・レースなどの芸術性の高い工芸品も、私にはそれを生み出した共和制国家ほどの魅力がなかったのです。
「シバの女王の船出」クロード・ロラン
水上バスからの眺めとダブります
ヴェネツィア共和国は、1797年、ナポレオンによって滅ぼされました。私の行ってみたい場所(会ってみたい男性)は、この時点で消滅した訳ですが、「遺骸」はまだそのまま、共和国晩年の栄華をいまに伝えています。
サン・マルコ広場のカフェ・フロリアンは、1720年創業ですし、サン・マルコ寺院が現在の形になったのは11世紀。壮麗で質実、ドージェと評議会議員たちの執務室だったパラッツォ・ドュカーレは16世紀に現在の姿の原型が出来上がりました。この街と切っても切れないゴンドラが黒く塗られたのは、1633年のことです。どれも、生前の「共和国」の名残なのです。
フィレンツェから電車で約3時間、ボローニャとかフェラーラなど、塩野文学に登場する町を横目に、メストレ駅を過ぎると両側には海が広がります。遠く前方に、寺院の鐘楼が僅かばかりつきだしている以外は密集する建物が、それ自体ひとつの浮島のように広い海原に浮かび、その姿はまるで蜃気楼のような非現実的なたたずまいです。列車は静かに終点のヴェネツィア・サンタルチア駅に滑り込ます。目の前の大運河はまさにバーンホフシュトラーセ(駅前通り)。大小さまざまな客用ボートが行き交い、人々の声が交錯します。私達は、水上タクシーに乗り込み、ホテルのあるサン・マルコ広場まで行きました。今まで読んだ何冊もの塩野作品の一こま一こまが頭のなかを駆けめぐります。
サン・マルコ広場は、壮大で華麗、今にも仮面を付けた男女が姿を現しそうな、物語性のたっぷりある空間です。広場に面したパラッツォ・ドュカーレは、これこそが共和国の心臓部とも言うべき、ドージェの館。他は見なくてもよいからここだけは、と76人のドージェたちの息づかいを聞きました。広場では、ふた晩続けてクラシックバンドの生演奏に酔い、夜も更けてから水上バスに乗り、昼間の喧噪が嘘のようにひっそりとなった街を眺めました。海上からは、ライトアップされた街並みがまるで時代劇の書き割りのようで、いまにも緋色の長衣に身を包んだ貴族や、船乗りたちが目の前に登場しそうな錯覚を覚えます。
【パラッツォ・ドュカーレ】
ティントレットの「天国」、縦7メートル横22メートルという巨大で迫力満点の絵が懸かる大委員会の間は1,000人は優に収まる広さです。ここには76人のドージェの肖像画がかかっています。共和国を裏切った廉で1355年に斬首されたマリーノ・ファリエルの額には黒い幕が掛けられていました。元老院の間、十人委員会の間、世界地図の間など、そこに掛けられた名画の数々もさることながら、この場所でまさに国家の方針が全て合議制の元で話し合われたんだなあと、またまた小説の世界に浸りました。建物自体も、質実でありながら、接見の間や黄金の階段など共和国の栄華を伝えるに充分な見応えがあり、ロッジアの繊細な彫り、正面ファサードの淡い色合いなどは、内部の重厚・華麗とはまた趣が違って、それは美しいものでした。

ここを訪れた記念に、私は他には何も要らないからこれだけ、と一枚の金貨を手に入れました。「イタリア遺聞」に、塩野さんが古いドュカート金貨を買った話を書いています。ヴェネツィアの金貨は、これが造られた約500年の間、純度0.997を保ち、国際通貨として流通していたのだそうです。金貨には造られた年の代わりに、その時のドージェの名前が刻まれており、私はどうしても一枚自分のものにしたくなり、古切手の店を訪ねました。お店の主はかなり年のいったおじいさん。英語はあまり得意ではないみたいでしたが、私の望み通り、本物のドュカートをいくつか見せてくれました。私はどうせなら古い方がいいかな…、知ってる名前の方がいいな…と、聞き覚えのあるアンドレア・ダンドロにしました。直径約2センチ、使い込まれたせいか、縁は見るからにゆがんだ形をしています。ダンドロの名前もかなりすり減ってはっきりとは読めません。塩野さんがベイルートのバザールで何気なく買ったドュカートは共和国最後のドージェとなったルドヴィーコ・マニンの名前だったそうで、後日、「共和国が文句なく西欧第一の強国であった」頃のアンドレア・コンタリーニ(1368〜82年)を古銭屋で見せられて、溜息をついた、と「イタリア異聞」にあります。手許の手書き商品札を見ると"Andrea Dandolo 1343〜54"と記されているではありませんか。塩野さんも手にしていない14世紀のドュカートなのです。
【ダニエリ】
ジョルジュ・サンドを初め、ワグナーやプルーストが泊まったという超高級ホテルで、塩野さんも泊まって「ヴェネツイア共和国の船体が、緋色の地に金色の獅子の国旗をなびかせて出入りした港」をすぐ真下に見たのだそうです。昔はダンドロ家の館だった、というのも私としては聞き逃せません。三ツ星ホテルに泊まっている私達ですが、中に入ってロビーくらいは見てもよかろう、と実行。1822年創業当時の様式に内装が変わっていましたが、それでも、ダンドロさんたちの暮らしの一部を偲んでみました。
【サンマルコ広場ライブ】
夜のとばりがおりる頃、サンマルコ広場ではカフェ・フローリアンなどの有名カフェが店の前に椅子とテーブルが並べ、ポップ・クラシックの生演奏を毎晩サービスしています。ヴァイオリン2台、ピアノ、アコーディオン、コントラバスという編成で、演奏者と聴衆の一体感が何とも言えずエキサイティング。サンマルコ広場がいかに広いかを如実に語っているのは、バンドの数で、あっちでもこっちでも、都合4カ所で同じ様な編成のバンドが、これまた一般受けする同じ様な曲を競い合って演奏しているのです。隣同士のバンドは演奏時間をずらして、相手の邪魔にならないようにしているので、欲張れば、あっちへ行ったりこっちへ移動したりして、その夜じゅうずっと音楽に浸っていられそうです。(席に座らなければ割高の飲み物料金も払わずにすむし。) 私達は前の方の席が空いたのを見て、そこに陣取り、グラッパを飲みながら、優雅で時としてコミカルな演奏を楽しみました。隣の同じ年格好の夫婦と言葉を交わし、なんと彼等は、息子がついこの間までいたネブラスカのオマハから来ていると分かり、びーっくり!

この「音楽鑑賞」には後日談がついています。ふた晩ともうっとりして聞き入ったバンドです。彼らがCDを販売していると判り、早速購入しました。私達の他にも、何人もの人が2000円ほどのCDを買っていきました。さて、帰宅して楽しみに聴いてみたら、これが、がっかり。まるで素人並み。とても聴くに耐えない出来だったのです。最近は簡単に音楽CDが作れる時代だから、きっと自分たちで録音して作ったのでしょう。多分二度と聞くことはないこのCD、思い出だけにしておけばよかったとちょっぴり後悔の元になっています。
(Mar.10, 2001-revised)