閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
翼のはえた指 ――青柳いづみこ

  車を運転しながらラジオを流していたら、安川加寿子の話をしていた。今ごろ珍しいと思いながら耳を傾けていると、青柳いづみこというピアニストが話をしていた。彼女は最近「翼のはえた指」という安川加寿子の伝記を著わし、吉田秀和賞を受賞している。青柳いづみこは安川加寿子の弟子であったが、最近エッセイも物にして、ドビッシーの研究家としても知られている。
  早速この本を買って読んでみた。昔まだ学生であった頃、音楽会に足を運んだ事が走馬灯のように思い出された。そして安川加寿子の知られざる側面に触れる事が出来、とても興味深かった。

  まだ学生の頃、少ない小遣いを貯めて音楽会に通った。今と違って演奏家は限られていた。バイオリンと言えば巌本真理・諏訪根治子、ピアノと言えば原智恵子・安川加寿子・井口基成、オーケストラと言えば新響と東響位であった。会場はオーケストラでは日比谷だけ、リサイタルは学校の講堂のような所。もちろん冷暖房など一切無い。
  今東京では毎晩20ヶ所ぐらいで音楽会が開かれているという。なんでも世界一だそうである。全く今昔の感がある。当時ドイツ音楽全盛の時代であり、何となく安川加寿子のフランス音楽には馴染めなかった。かの厳本真理の奏するバッハのシャコンヌに心を躍らせたのを覚えている。安川加寿子といえば日響と共演したベートーベンの協奏曲第四番の出だしが妙に印象に残っている。それは私のイメージよりはるかに弱音でゆっくり奏せられた。
  我が家に安川加寿子のCDは一枚も無い。ワルツ堂に行ってみたがこれまた一枚も見つからなかった。タワーレコードで漸く一枚見つけた。安川加寿子は生演奏主義で、音楽会も殆ど録音させなかったようだ。このCDはNHKライブラリーに残された音源を元に作成されたものである。モーツアルトとラベルの曲が入っている。40歳後半の円熟期のものと、宿あのリュウマチに冒された60歳前の演奏である。モーツアルトのソナタ(トルコ行進曲付き)の方は病の影響が見られるが、円熟期のラベルの「鏡」は素晴らしい。

  安川加寿子は父が国際連盟に勤めていた関係で、生後間もなくパリに渡った。3歳でピアノを始め、10歳でパリ国立音楽院に入学、ラザール・レヴィに師事した。これが演奏家としての生涯を決定づけた。15歳の時一等賞を得て同校を卒業、以後ヨーロッパ各地で活発な演奏活動を続けた。
  そして39年、ヒットラーの台頭によりヨーロッパに風雲急が告げられ、安川加寿子は帰国した。時に19歳であった。
  安川加寿子は父の仕事の関係もあり、フランスの上流階級の人と接しながら育ち、フランスのエスプリを身につけながら多感な少女時代を過ごしてきた。言葉も日本語よりもフランス語のほうが得意で、帰国後しばしば戸惑ったと言う。
  今のように誰でも海外に留学できる時代と違う。ピッカピカのフランス帰りに期待が集まった。さっそく新響(現N響)を始めとして各オーケストラとの共演、リサイタルの開催と精力的な演奏活動が始まった。
  しかしやがてわが国も戦争に突入し、演奏活動もままならなくなった。そして45年春の東京大空襲でピアノも楽譜も一切失い、長野に疎開した。此処で丸9か月ピアノのない生活を送った。安川加寿子は後にあの時はピアノを諦めようと思いましたと語っている。
  然し楽壇のほうも安川加寿子を放って置かなかった。日響から定期の出演依頼が来た。46年4月、ローゼンストックの指揮でサンサーンスの2番を弾いた。楽壇復帰は大成功であった。 

  安川加寿子が帰朝した頃のわが国は、ドイツ音楽の全盛期であった。私同様フランス音楽に馴染めない人も多かったようである。安川加寿子はそれまでの指を曲げて垂直に鍵盤を叩く奏法ではなく、指を伸ばして微妙なタッチを引き出すという弾きかたを採っていた。
  そう言えば、私はコルトーが最後に來日したときに聴く機会を持ったが、天狗の団扇のような大きな手が鍵盤の上をひらひら舞っているのが妙に印象に残っている。
  当時の日本のピアノ界は井口基成と安川加寿子に二分されていた。井口派はしっかり硬く引くけれど、安川派は柔らかいタッチだがテクニックに弱いとされていた。著者青柳は安川門下であったがやがて井口門下に移り、その後芸大付属高校で再度安川の門を叩いた。この辺り安川加寿子の度量の広さが伺える。
  事実この頃、受験やコンクールで、安川門下は評価されないので有名であった。昔からの力任せに打ち込む井口の奏法の方が迫力があり有利であった。私もこの頃毎日コンクールに行ったものだが、ピアノは井口基成,バイオリンは小野アンナの弟子が多く入賞していた。然し安川加寿子は自らの奏法を頑なに変えようとしなかった。

  安川加寿子は東大出の国文学者と結婚し、二男一女をもうけた。私は安川加寿子の私生活など全く知らなかったが、この本を読んでひどく感心させられた。芸術家、特に女性の場合、芸の道と家庭生活と両立させていくのは難しい。安川加寿子の場合、朝から晩までピアノのレッスンに明け暮れして、年がら年中公演で全国を飛び回っている。その上芸大の教授もしているし、沢山の弟子も持っている。ご主人は男尊女卑の九州の名家の出身。唯でさえも手が掛かるし気遣いが大変。その上三人の子供はやんちゃ盛り。勿論お手伝いはいたのだろうが、やはり主婦でないと勤まらない家庭の仕事や役割がある。安川加寿子は演奏会から帰ってくると、すぱっと切り替え家庭の主婦になりきり、夫につかえ、子供の面倒を見ていたそうである。
  近頃の若き芸術家はどうであろうか。独身の人もいるが、結婚しても子供を作らない人が多いようで、ましてや安川加寿子のようにお腹を突き出して演奏会に臨んだなんて聞いた事もない。近頃では先生の方から家庭を採るのかピアノを採るのか決めなさいと迫ってくる。
  安川加寿子の更に偉かった事は、何と言ってもピアニストとしては致命的な病リュウマチと闘い演奏を続けた事である。この本の後半には、その病との壮絶な闘いが描かれている。
  1978年の夏安川加寿子は肩の異変に気がついた。指を使うのが商売のピアニストにとって、リュウマチは致命的である。安川加寿子は痛みに耐え、曲がった指を伸ばし、奏法を工夫し、極力周囲に気付かせない様に気を配り演奏活動を続けた。それは神業に近いものであった。然し名医の治療も空しく病状は刻々と進行し、83年を最後に演奏活動から退いた。
  安川加寿子はその後も猶不自由な体を押して、国内外のコンクールの審査や、音楽関係の様々な委員会に出席し、わが国の楽壇に多大な貢献をした。然し長年にわたり無理をして演奏活動を勤めた為、かなり過剰な投薬がなされ、薬の副作用が影響して1996年7月ピアノ界はもとより、多くの音楽関係者、音楽愛好者に惜しまれながら他界した。享年74才であった。巨星落つと言う感じではなく、静かに去っていった。                     (2001.11)