閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
壷坂のみち
 
  司馬遼太郎の「街道を行く」の第七巻に「大和・壷坂のみち」がある。例によって須田克太をともない、壷坂にやってくるのだが、途中八木にある今井町に寄る。今井町は信長の時代から残る環濠集落であり、今でもその面影をかなりとどめている。
須田克太は明日香が大好きだ。素通りも出来ず高松塚を見学、漸く壷坂寺に着く。
  まず寺の奥にある高取城址を見学する。そこで大分時間をとり、壷坂寺に着いたときはもう六時を過ぎていて閉門になっていた。この「壷坂のみち」は主に高取城のことが書かれている。
  
  わたしが初めて車を買ったとき、やたらとドライブをしてみたくなった。ある冬の寒い日、家の者達を乗せて明日香に出かけた。真冬のことゆえ、あちこち見物するわけにも行かず、時間が少々あったので、壷坂寺まで足を伸ばした。
  今のように舗装された道がある訳でなく、辛うじて離合できる細い山道をがたごと登っていった。何と途中から雪が積もっているではないか。無論スノータイヤとかチエーンは装備している訳がない。ままよと登って行くと、雪は次第に深くなってくる。Uターンする場所はなく、バックするには腕がない。困り果て猶も登っていくと、曲がり角の少し広いところに、二台の車が止まっていた。その人たちの助けを借り何とか事なきを得た。
  それから何回かこの寺を訪れた。その奥にある高取城址も。

  子供の頃、何故か浄瑠璃の「壷坂霊験記」が流行していた。「三つ違いの兄さんと、言うて暮らしているうちに」とか「去年の秋の患いに、いっそ死んでしもうたら・・・」と言ったせりふが今でも耳に残っている。そんなこともあって、かねがねこの寺を訪れてみたいものだと思っていた。
  平成元年の初春、国立文楽劇場で「壷坂観音霊験記」が演ぜられた。人間国宝竹本越路太夫がその春引退することもあり、是非観たいものだと思い出かけた。人形は吉田箕助・玉男という豪華な顔ぶれであった。
  既に高齢のため、音吐朗朗と言う訳にはいかないけれど、地面のそこから湧き出てくるような胸に響く語り口。長年鍛えられた技ならではと感銘した。この年の四月、菅原伝授手習鑑の公演を以って、越路太夫は惜しまれつつ引退した。

  壷坂寺の呼び物は、なんと言っても沢一・お里、崖の上には二人の像が立っている。
沢市がこの谷に身を投げるシーンは、人形浄瑠璃にしてはなかなか大掛かりで、闇の中に閃光が走り、煙が立ち込め、雷鳴が鳴り響き、一大スペクタルが展開された。今その崖淵に立って谷間を覗くと、跳び下りたら命が危ないと思われるほどの絶壁である。
  沢市は命を取り止めただけでなく、目も開いたという奇跡が起こった。観音さんの霊験あらたかと言うべきか。其れにあやかって沢市目薬が売られている。この辺りは漢方薬の小さな薬屋が沢山ある。
  壷坂寺には、目の不自由な人のための特別老人養護ホームがある。そして盲人たちのために、ラベンダーや香りの強い花を植え、においの花園を作っている。
  壷坂寺は又、アジア・アフリカ国際奉仕財団を設立、その活動の一環として、インドのハンセン氏病患者救済事業を積極的に進めている。その功績がインド政府に認められ、国外不出の六億年昔の花崗岩の古石の持ち出しが認められた。この石を使い、現地で大観音を彫り、それを六十体に分割してわが国に持ってきた。高さ二十メートルに及ぶこの観音像は、寺の横の小山の上に立ち、大和の地を見下ろしている。
  そのほか、釈迦の生涯を描いたレリーフ・涅槃像・仏足石・納骨堂などがインドの協力によって作られている。

  壷坂寺から更に山道を三十分ほど登っていくと、高取城址がある。いかにも司馬遼太郎が喜びそうな山城の跡である。近畿地方有数な規模を誇る山城だったようである。その石積み、基礎石から往時の隆盛がしのばれる。しかしこのような山奥に、何のために城を築いたのであろうか。確かに攻めるのには難いが、生活するには不便この上ない。
  この城は十六世紀前半南北朝時代、南朝に属し、越智氏の支城として設けられ、吉野との連絡に使われたようだ。今でも吉野に抜ける道がハイキングコースになっている。
  その後筒井氏・本田氏と変わるうちに規模が拡大し、やがて徳川初期には植村氏が入り、この山奥に累々と石垣が積み上げられ、近代的な城の体をなしたようだ。
  ある会合で高取城の話をしたら、地元の大淀に住んでいる人が、わたしの小学生の時代、同級に植村と言う人がいましたと言う話。それを聞いた別の人が、私も幼い頃その辺りにすんでいたが、やはり植村という人がいたと言うこと。何でも今でも植村一族はこの辺りでは有力者であり、町長も歴代植村一族が継いでいる様である。
  搦め手の急峻を喘ぎながら登る。山城にとって水は命。途中に七つの井戸がある。標高583メートルの城址より望むと、青垣山が連なり、まことに大和は美わしである。
  私はこの城址に立つと、いつも「荒城の月」を思い出してしまう。青葉城なんかよりずっと感じが出ている。大きな山桜が四、五本ある。花の頃一度訪れたいと思っていた。ある年、明日香の花見のついでに足を伸ばしてみたが、山奥は寒く、つぼみは固かった。この山桜の下で、杯を傾けながら「春高楼の花の宴・・・」なんて歌ったら最高であろう。
春ばかりではない。ここの楓の大木は素晴らしい。是非今度は秋に訪れて見たいものだ。

  壷坂寺に登る入り口近くに「花大和」という薬膳懐石の店がある。鄙にはまれでなかなかの店である。そういえば、この付近に雉料理の店もある。
  この辺りは万葉ゆかり地でもある。壷坂寺の駅を反対側の方に少し行くと、斉明天皇陵がある。そして少し南に下れば、椿で有名な巨勢寺がある。万葉集にも詠まれているが、とてものどかなところで、春の日、椿を見ながら散策するのも一興であろう。         (2000.02)