閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
漫才師島田洋七の自伝的小説「佐賀のがばいばぁちゃん」が評判を呼び、百万部を超えるベストセラーになった。そしてこれが地元の協力を得て映画化された。がばいばぁちゃんを演ずるは吉村和子、けだし名演であった。猶、がばいとは佐賀弁ですごいと言うこと。 広島の飲み屋に一人の女が勤めていた。そこへ二人の男の子がやってくる。下の子は母親に甘えて大声で泣き叫ぶ。母親が家で待っているように説得するが聞かない。そんなある日、一人の女性が訪ねてきた。母親の妹である。下の子を佐賀のおばぁちゃんのところに預けることになり、妹が連れに来たのである。 佐賀のがばいばぁちゃんはその名のとおりすごい人だ。朝早く起きて働きに出る。磁石を引っ張って鉄屑を集める。孫にも早く起きて飯を炊かせる。薪で炊くのは大変だ。なかなか上手く炊けない。今迄優しいお母さんの下で甘えていたのに、慣れない土地でがばいばぁちゃんの叱咤激励が飛んでくる。しかも極貧暮らし。少年はめそめそするばかり。おばぁちやんは独自の哲学を持っている。貧乏には明るい貧乏と暗い貧乏がある。明るい貧乏していなくてはならない。 ばぁちゃんの家の横に堀がある。上手からいろいろのものが流れてくる。スーパーが捨てるのだ。それを拾って飯の菜にする。少年は母親が会いに来るのを心待ちしているが、一向に現れない。時には広島方面向けて線路の上を歩いてみるが。 少年が小学校に入るとたちまちいじめにあう。しかし当初は喧嘩したものの、次第に仲間と融けあっていく。仲間は色々スポーツをやっている。面白そうだ。しかし何をやろうにも道具が要る。ばぁちゃんは走れと言う。しかも裸足で。運動会の日がやってきた。心待ちしていたお母さんはとうとうやってこなかった。少年はリレーに出場、見事トップでゴールインした。 やがて中学、少年は野球部で頭角を現しキャピテンに選ばれる。ばぁちゃんは万札を片手に少年に一番高い靴を買ってやる。一方少年はアルバイトで得た僅かのお金でばぁちゃんに眼鏡を贈る。 学校も町も上げての大イベント、マラソン大会が催されることになった。今度こそ母親がやってきた。母親は久し振りに見る息子の成長とマラソン大会での優勝に涙するのであった。 少年は中学を卒業し、広島に帰ることになった。別れは辛い。ばぁチャンは鍋底を磨きながら、早く行けと繰り返し叫ぶ。遂に少年は去った。ばぁちゃんは絶叫する。「行くな!」 観客は年配の女性が多かった。子供や孫がいるのだろう。どういう気持ちで観ているのだろうか。我々の子供の頃ならありそうな話。最近では夫に先立たれ、あるいは離婚した場合、親子ともども実家に帰り、子供を預けて働きに出ると言うケースがよく見られる。このように遠いところに子供一人で預けられるケースはまず少なかろう。 貧乏人は辛い。子供達は運動会の昼休み、母親と一緒に豪華な弁当を広げる。この少年は一人寂しく教室で日の丸弁当を広げている。そこへ先生が入ってくる。お腹の調子が悪いから弁当を取り替えてくれと言うのだ。少年は世の中にこんな旨いものがあったのかと喜んで食べる。そこへ次々と腹痛の先生が現れて、弁当の交換を申し入れる。まあ話としては出来すぎているかもしれないが、今では教室で食べたり、給食を食べたりするようだ。 最近いじめや自殺の話が新聞やテレビに出ない日はない。まことに嘆かわしくもあり悲しい話ではなかろうか。一体誰の責任なのか。教育委員会・学校長・担任・親、遂には世の中・社会と言った抽象的な存在に責任を帰してしまう。確かに世の中の変化と言うものの影響は大きい。しかしその変化の大きい部分は世の中が豊かになったからであると言われると困ってしまう。 ずっと以前のことだが、松山善三の「虹の橋」と言う映画があった。江戸時代の貧乏長屋の話だが、テレビでそれについてインタビューがあった。女性アナが「どうしたら思いやりとか人情を篤くすることが出来るのですか」と尋ねた。監督は言下に答えた。「それは無理です。なぜならば、人情は貧乏の裏返しなのですから。貧しい国にボランティアにでも行くより仕方ないでしょう」。 豊かな社会は人類共通の願いである。しかしその豊かさが人々から人情を失はせてしまう。貧しい時人々は助け合って生きていく。豊かになると自分さえよければとなる。昔もいじめはあったように思う。しかしガキ大将が仕切っていたのでそんな大事にはならなかった。何より先生の存在が恐かった。その影響力は絶大であった。 識者の話を聞くと、今後もイジメはなくならないという。自殺も同様である。豊かな社会の中で人情が欠落してしまったと言うことなら逆戻りはなかなか困難である。この映画を観ていると、少年が貧乏で鍛えられ立派に成長していく過程を映している。ばぁちゃんの鍛え方も良かったのだろうが。しかし今の子供達に見せたらなんて言うのだろうか。きっと時代が違うというだろう。戦後苦労して豊かな社会を作ってきたのに、真に残念な話ではないか。 この本がベストセラーになったとき、島田洋七をよく知る友人達の間で、どうも出来すぎではないかという声が上がったそうである。しかしそれはそれでよいではないか。一つの話として人々に感動を与え、現代の世の中を考える一つの話として、読みかつ観れば。きっと年配の大人たちはある懐かしさを持つだろうが。いじめ子必見の映画と思うが。 ( 2006.12 )
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