閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
もう遠い昔のこと、大和西大寺に引っ越してきた。早速子供を連れて、近所に散歩に出かけた。歩いていると1km四方もあろうと思われる広大な原っぱに出くわした。一体これは何であろう。入り口付近の石碑に平城旧跡とある。そうだここがその昔、都があったところに違いない。我等はその隣に住むことになるのかといささかの感慨を覚えたものだ。 最近都会の近くに原っぱなど見たことない。ましてやこの広さはどうであろうか。殆ど人影は見当たらない。春になると一面クローバーのジュータンが広がる。ところどころレンゲが彩りを添える。突如ひばりが舞い上がる。なんとものどかな田園風景。東の方を眺めれば若草山が、振り返れば生駒山が。昔の大宮人もこの景色を眺めて暮らしていたのだろう。 うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり こころ悲しも 独りし おもえば --大伴家持( 巻十九 - 四二九二 ) その頃は1月15日成人の日に、タコ上げ大会が催された。そして夜は若草山の山焼き、一望さえぎるものなく見渡せた。 今から10年ほど前に、この原っぱの南の入り口に朱雀門が復元された。昔の建築技法を用いて建てられた堂々たる建築。左右に築地塀が広がり、柳が植えられ、中国の都を見るようである。 それから少しおいて、広場の東端に東院庭園が復元された。池を配した見事な庭園である。宮中の宴会や迎賓館として使われた。最近国の名勝史跡に指定された。天平の貴人達が池を眺めながら杯を酌み交わすようすが目に浮ぶようだ。 このように復元工事は少しずつ進んではいるが、何分この広さ、この広大な広場にポツンポツンと建てていても目立たないし、歩いて見物するにもくたびれてしまう。その所為か最近溝に沿って桜が植えられ、だいぶ大きくなってきた。花見時分には結構賑わっている。天平の昔を偲んでの花見も乙なものだ。 そこでいよいよ本命が登場することとなった。大極殿の建築である。宮中の中心、天皇の儀式を行う場所である。この大極殿が平城遷都1,300年に完成、公開されることになった。 平城京は藤原京から遷都された。藤原京は中国の都を模して作られた立派な都であったが、僅か16年でここ平城の地に移されてしまった。その平城京も74年で幕を閉じてしまい、長岡京に遷都することになる。 この大極殿建設中、幾たびか工事の様子が公開された。我々も2,3回見学に行った。釘一本も使わず。昔の工法での建築である。実に見事なものである。藤原京も、平城京もあれほど短期に立派な都を作り上げるとは、昔の土木建築の腕前はたいしたものと感心させられる。 4月下旬、遷都祭がいよいよオープンになった。物見高い我らのこと早速出かけた。駐車場がないので、近くのスーパーに車を置いて歩いた。20分ぐらいの道のり。何しろ広い原っぱ、あちこちに転々と見学者が広がっているので、思ったほど混んでいるようには見えない。 まず本命の大極殿に向う。さすが10年の歳月と200億近くの巨費をかけただけあって立派なものである。玉座の前に立つ。外国の宮殿によくある玉座に負けない美麗さ、日本も昔は結構栄えていたんだなあとしばし感心したものだ。柱越しに南のほうに目をやると、はるか遠く朱雀門が見える。御堂筋に負けない朱雀大通りが南に延びている。昔は現在の大和郡山まで続いていたそうだ。今は羅生門の石碑が立っているのみ。天平時代の衣装を貸してくれるので、時折天平人が現れる。さすが天平時代の末裔よく似合っている。
それから一月余り経ったある日のこと、もうだいぶ空いているだろうと又出かけた。今度は平城京歴史館と遣唐使船を見に行こうと言うことになった。歴史館はさすが混んでいて30分待ちであった。何しろ小中学生の団体が多かった。 なんと言っても興味が引かれたのは遣唐使船の実物大模型の展示である。全長30メートル、全幅10メートルという小型船である。少し大型の漁船のようである。よくこんな小さな船で東シナ海の荒波に出て行ったものだ。居住区は狭く、寝るのがやっとと言う有様。遣唐使船は20回計画されたが無事唐に渡たりついたのは15回と言うことだ。かの鑑真和上も幾度の渡航に失敗、盲目になって漸く日本に上陸、唐招提寺を開いた。 当時世界で最も進んでいた政治制度や仏教、技術、学問を取り入れるために危険を侵して海を渡った。如何に当時の中国の文化が優れていたか、それを取り入れようとする当時の日本の国の人の思いが強かったか、この遣唐使船を見るとわかるような気がする。 歴史館では5世紀から8世紀にかけての東アジアとの交流の様子が紹介されている。圧巻だったのは、バーチャルリアリテイを駆使して、当時の平城京の姿を映し出すところ。大極殿を取り囲んで役所の建物、その外側には貴族の館、更には庶民の家々。世界的に見ても見劣りしない景色が俯瞰される。 平城旧跡は長い間かかって発掘が行われてきた。おびただしい木かん類が出土した。その数1万7千点に及ぶと言う。未だ地中に残されているものはそれ以上にあるそうだ。その中に文書類、手習い、落書きなどがあり、当時の生活や仕事ぶりが良く分かるようだ。 わが国は木の文化だ。もし石の文化であったなら、当時の世界に冠たる大都市の姿、が残っていたであろう。朱雀門、東院庭園、大極殿いずれも考証を重ね現地に復元したことは大変意義深い。今後も復元工事をつづけて欲しいものである。 又小学生や、中学生が多数見学に来ていたが、これを機に、日本の歴史について興味を持ってくれば幸いと思う。 ( 2010.06 ) |