閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
浪費するアメリカ人
 
 「浪費するアメリカ人」と言う本を手にして、はるか昔のことを思い出した。今から40年程前、アメリカのジャーナリスト バンス・パッカードが「浪費を作り出す人々」と言う本を著わした。戦後アメリカは復興に苦しむ他の国を尻目に、経済的に大きな発展を遂げた。アメリカ市民の目のくらむような贅沢な生活は、映画や雑誌で紹介され、他国の羨望の的となった。大きな邸宅、大きな自動車、さまざまな電化製品・・・・。敗戦国の日本から見れば、夢のまた夢であった。この本が出たとき、私は世帯を持ったが、その頃を思い出すと、よくも文句を言わずに生活していたものと不思議に思う。
  「浪費を作り出す人々」と言う本は実にショッキングな本だった。われわれは子供の頃から「欲しがりません、勝つまでは」と教えられてきた。倹約は最高の美徳としてたたえられ、二宮尊徳の銅像を拝んだものだ。この本はアメリカ市民の浪費振り、それを促進するメーカーのこれでもかこれでもかと言うマーケテイング戦略が書かれている。
    しかしパッカードは浪費経済を賞賛しているわけではなく、それに大いなる警鐘を発するとともに、一部アメリカ市民が正しい消費生活に立ち止まろうとする努力を伝えている。しかしその処方箋は、何か精神主義的な倫理的な、二ノ宮尊徳的なところがあり、迫力に欠ける恨みがある。 

  それから40年、アメリカのみならず先進国と称せられる国々は消費経済から浪費経済に走っていった。10年近く好況がつづくアメリカは、スケールの大きい浪費を競い合うようになった。ハーバード大学教授ジュリエット・B・ショウアーが最近「浪費するアメリカ人」と言う本を著わした。この本の帯にこんな文句が書かれている。「見榮も悩みも財布事情も、もしかしたら日本人と瓜二つ?」。確かにこの本を読むと、日本人の消費行動はアメリカ人に似ている。いささかスケールが小さいけれど。日本人は、戦後一貫してアメリカの文化を、生活を真似してきた。

  昔テレビドラマで「隣の芝生は青い」と言うのがあった。日本人もようやく戦後の貧乏から抜け出し、自分の生活を他人と比べるようになった。豊かなアメリカには新しい消費スタイルが出現してきた。それはステイタスとしての消費、つまり自分が社会でどの階級にぞくするのか、それに相応しい、それに見られる消費をしなくてはならない。自分が属する階級とは、当然本来属している階級より上を見ている。アメリカ人は働いてお金をため、そして上の階級にあがっていこうとは思わない。まずその上の階級の生活を見て模倣をする。消費が先に来る。当然お金がない。ローンと言うことになる。そのローンを返すために必死になって働く。夫婦共稼ぎは当然である。浪費主義と仕事中毒がワンセットになっている。
  どうしたら「働きすぎと浪費の悪循環」から抜け出すことができるのか。この本は、すさまじいばかりのアメリカ人の浪費の実態と、そこから抜け出す具体的な処方について述べている。ローンの返済に疲れたアメリカ人の一部に、今新しい生活スタイルが起きてきているようだ。しかし世界の経済はこの浪費経済の上に成り立っている。この新しい生活の動きは、一体アメリカの、世界の経済にどういう影響を与えるのだろうか。

  アメリカの中の上のクラス、年収で5万ドルから10万ドルクラスの人々は、可処分所得の中の債務返済額は18%に及んでいる。どこかの国の国家財政みたいである。国民の貯蓄率もまた急速に下がっている。平均的アメリカ人世帯は、げんざい、可処分所得の3.5%しか貯蓄してない。1995年の調査で、前年何かしの貯蓄をしたと回答した人は、アメリカの全世帯のたった55%に過ぎない。
  先日車を運転しながらラジオを聞いていたら、昨年のアメリカ人の消費は収入を上回ったとのことである。こんなことが国レベルでも、個人レベルでもつづくならば誰でもしたいと思う。

  最近日本経済は、設備投資が盛り返してきて、輸出もまずまず、問題は消費にあるとよく言われている。アメリカもことあるごとに、日本に対して内需を増やせといっている。しかしわが国は、住宅を除いては欲しいものはほぼ充足されている。電化製品や自動車はあふれている。食べ物は大量に捨てられ、戦中派を嘆かせている。
  内需の振興による経済成長はもっともだけど、何か浪費の勧めみたいで、後ろめたさを感じざるを得ない。そんな時内橋克人の「浪費なき成長」が目にとまったので読んでみた。
  内橋氏は「浪費なくして成長なし」と言う日本の社会通念を疑い、節約とほどほどの成長が両立する「理念型経済」は決して夢でない、といっている。なるほど、今の経済の仕組みからいえば、消費を増やさねば、つまり浪費をせねば成長発展は無いようになっている。良く構造改革をしなくては成長発展はありえないといわれるが、そこでいわれる構造改革は、市場経済、すなはちすべてを市場に任せる、つまりは浪費の薦めに過ぎない。それを目指して改革をしろと言っているのである。
  内橋氏は、国民的合意を得て、浪費に頼らないで、そこそこの成長を遂げるための理念を形成することが大切であると述べている。その例としてデンマークが化石燃料を節約して、エネルギー自給率を高める取り組みに成功していることをあげている。
  内橋氏によると、日本でも最近ボランタリー・シンプリシテイ、つまり浪費よりも、むしろ節約を楽しむ人が増えてきたとそうである。先の「浪費するアメリカ人」の中でも、最近ダウンシフター(減速生活者)が増えていると書かれている。彼らは浪費と働きすぎの悪循環を断ち切り、精神的に豊かでゆとりある生活を楽しむようになった。ダウンシフターが挙げている減速の第一の理由は、時間を多く、ストレスが少なく、そして自分の生活のバランスがもっと欲しかったというものである。

  浪費経済は一体いつから起こったのであろうか。それらは経済学ではどう考えられてきたのであろうか。たまたま、R・メイソン(サルフォード大学教授)の顕示的消費の経済学と言う本を目にしたので早速読んでみた。
  大地主や貴族が世の中を支配していた頃は、贅沢は彼らの特権であった。尤も庶民は贅沢したくてもしようがなかったが。その後オランダを始めとして、商業資本の勃興とともに、新しく金持ち階級が生まれてきた。しかし彼らの贅沢は、道徳的な理由からさまざまな制約が加えられた。実際は貴族や地主の嫉妬によるものである。
  その後イギリスに産業革命が起こり、ブルジュワジィが生まれ、見せびらかしの消費が流行してきた。アダム・スミスもその現象は認めてはいたものの、それは社会学や心理学の範疇に入るもので、経済学の研究の対象にはしなかった。経済学はあくまで、限界効用と価格という、人々の合理的な思考や行動をベースとして論じられてきた。
  やがて経済の中心はアメリカに移った。金ぴかの人が沢山生まれた。貧乏人がにわか成金になると、とめどなく富を誇示したくなるもだ。19C末から20C初頭にかけ、にわか成金の華やかな生活ぶりは目をむいた。それは映画や新聞で世界に紹介された。しかしやがて大恐慌や大戦がやってきて、彼らの生活ぶりに非難が集まるようになった。そこでロックフェラーやカーネギーのような大金持ちは、さまざまな社会活動で自らを顕示するようになった。
  戦後のアメリカにはリッチな大衆が生まれてきた。人々は競って見せびらかしの消費に走った。その様子はパッカードの浪費をつくる人々に詳しい。いつしか民主主義アメリカにも階級が出来るようになってきた。人々は競って上の階級を目指し始めた。
  経済学はこのような現実の経済の動きから乖離し、数理経済学、計量経済学に走っていった。それはますます精緻を極めていった。そして経済学は役に立たないといわれるようになってしまった。一方メーカーの方はそんな経済学は無視して、この見栄による浪費に目をつけ、マーケッティングの技術を磨き、売上を増やしていった。コマーシャルは効用をうたわずイメージを訴えるようになってきた。それを買えばあなたはハイソサイアティの仲間入りが出来ます。ブランドが大事な意味を持つようになってきた。
  
  先日会社の近くを歩いていたら、淀屋橋のたもとに淀屋の記念碑が立っていた。淀屋は米問屋で巨万の富を得た。心斎橋から淀屋橋までその私邸があったという。あまりの大尽ぶりに、金はないが権力がある武家の怒りに触れ、所払いとなってしまった。しかし今でも大阪では淀屋の人気が高い。それは淀屋が社会活動を色々やって、なにわの町に貢献したからである。

  この本に書いてあった。
  見て 欲しくなり 借りて 買う                        
                                    2001.2.22