閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
いよいよ奈良そごうが閉店する事になった。此処の美術館は、設備と言い、企画と言い、中々のもので、家が近い事もあってしばしば足を運んでいた。その閉館は真に惜しまれるものがある。 その最後の催しは「近代日本画洋画名品展」というもので、此処の美術館所蔵の物を中心に展示された。其の中に、この7月に亡くなった小倉遊亀の「蜜柑」があった。そして美術館を出ようとしたら、過去にこの美術館で催された絵画展のパンフレットが半額で売られていた。手にとって眺めていたら、小倉遊亀展のものが目にとまった。 そう、あれからもう10年も経ったのだ。それは奈良そごう美術館の開館一周年を記念して開催された小倉遊亀展のパンフレットであった。持統天皇・天武天皇・大津の皇子の三像を描いた絵が珍しく、今でも強く印象に残っている。これらの絵は薬師寺に寄贈されたそうである。 小倉遊亀は大津の出身ではあるが、奈良女子高等師範に学び、大和の風物をこよなく愛していたようである。そんな事もあり、この飛鳥時代を代表する三像を描き、薬師寺に奉納したのであろう。ふくよかなお顔の持統帝、威厳に満ちた天武帝に比べると、大津の皇子はいかにも悲劇の主人公のように、眉間に皺を寄せ悲しげである。この三枚の絵は平山郁夫の玄奘三蔵の障壁画と共に、薬師寺に末永く伝えられる事であろう。 どういうものか、NHKで小倉遊亀の事を良く取り上げている。私も最近3回も特別番組を観た。その度に大変立派な方と深い感銘を覚えた。小倉遊亀はこの7月、105歳で他界した。小倉遊亀は90歳半ばで体調を崩し、絵筆を捨てた。周囲がどんなに勧めても画室には入ろうとしなかったそうである。遊亀の世話をしていたのは孫の寛子さん。(養女の子)何とかもう一度絵筆を取らせようと懸命の努力を続ける。其の有様がTVに映されていたが、寛子さんは本当に偉い人だ。 毎日居間に座って庭を眺めていた遊亀は「梅は何一つ怠けないで、一生懸命生きている。私も怠けていてはいけない」といって再び絵筆を取った。齢101歳の事であった。そして身近にある花木や果物を描き始めた。わけても晩年は好んでマンゴーを描いていたようである。 テレビで紹介された遊亀の暮らしぶり、なかんずく孫とのやり取りは俗気がなく、真に天真爛漫、ほほえましいものがある。金さん銀さんと違うのは、ひとたび絵筆を取ると別人のようになって描く事に集中する事である。 小倉遊亀は奈良女子高等師範を卒業後、教育の世界に身を投じる事になった。京都の小学校を皮切りに、名古屋の高等女学校の教諭を経て、横浜のミッションスクールに奉職した。仏教徒である遊亀は、この学校のミサには一度も出席しなかった。然し校長先生に認められ、17年のながきに亘って勤める事になった。その間、絵には素人の生徒達と一緒に学んだ事が、後の自分にとって役に立ったといっている。 その頃遊亀は友人の紹介で安田ゆき彦に会いに行き、弟子入りを志願した。安田は「絵の道には弟子も師匠も無い。ただ先輩と後輩がある。何でもいえる先輩なら、ならせて貰います」と言われ、後輩の末席を汚す事になった。この事が遊亀の生涯を決定づけた。 安田ゆき彦は遊亀の才能を高く評価し、細部に亘る技術的なことは教えることはなかったが、絵の根幹に関る大切な事をサゼッションしてくれた。そしていくつかの絵画展への出展を薦めた。遂に33歳のとき院展に初入選を果たす事ができた。其の後遊亀は数々の賞に恵まれ、1980年、85歳のときに文化勲章を受章した。 遊亀は宗教的修行を積んでいた。そして43歳のとき、30歳年上の禅僧鉄樹と結婚した。鉄樹は程なく没したが、その宗教的体験は絵画においても表れている。遊亀の作品を見ていると俗気がない。人にすがすがしい感じを与えるのはその故か。 私は遊亀の作品の中で「径」が好きだ。日傘を指した母親のすぐ後をこれも日傘を差した女の子が歩いている。そのすぐ後に仔犬が付き添っている。なんとも微笑ましい雰囲気の出ている絵だ。「姉妹」という絵も素晴らしい。小さな女の子の姉妹が並んで座っている。その表情がなんとも微笑ましい。若い頃の人物画、年老いてからの静物画、それぞれにその人柄がにじみ出ていて観る者の心を和ませてくれる。 テレビを見ていると小倉遊亀の名言が流れてくる。[老いて輝く。60台までは修行。70台でデビュー]。なんとも耳の痛い話ではないか。105歳まで描き続けてきた遊亀であるが、金銭とか名誉とは無縁の世界であった。 遊亀はこんな事も言っている。「何も持たぬと言う人でも、天地の恵みは頂いている」。そうしてこんな句を残している。 のどかなり 願いなき身の 初詣 素晴らしい人生ではなかろうか。女流の日本画家として最高を極めた人、最長寿を美しく全うした人。 夫 鉄樹の好んだ西行の 願わくば 花の下にて 春死なん の句に従うかのよううに、情熱を失わず、凡俗を捨て、自然に活き、この世を去っていった小倉遊亀の生涯であった。 ( 2000・12 ) |
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