閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
イラク戦争従軍記          
               ――― 野嶋 剛
 
  朝日新聞の記者野嶋剛さんが、イラク戦争に従軍し、そのときの手記を一冊の本に纏めた。降り注ぐ弾丸をかいくぐってと言うものではないが、現代の戦争の一つの側面を知る事が出来た。
  野嶋さんは朝日新聞のシンガポール支局長であるが、たまたま社命によりイラク戦争に従軍する機会を得た。野嶋さんにとって、イラクは初めてであり、勿論従軍も初めてである。野嶋さんはアフガニスタンの米軍取材で、合計10回ぐらい同地を訪れている。そんな事が今回の人選につながったのであろう。
  前回の湾岸戦争のときは、一般的に従軍は認められていなかったが、今回は世界中のジャーナリストに呼掛けがあり、600人が参加した。日本には4名の割り当てがあった。アメリカは余程今回の作戦には自信があったようであり、メディア・コントロールの必要性も感じていたのだろう。 
  日本ではジャーナリストと言ってもサラリーマン意識が強い。外国の場合は独立した職業人としての気質がある。出来るだけ人の行けない激戦地に配属され、一旗揚げようという気持ちを持っている。野嶋さんは初めての事でもあり、そこそこ安全で戦場を経験できればと考えている。
  以前ロバート・キャパ賞展を観に行った事がある。キャパは55年にインドシナで死んだ。彼の功績を讃えてロバート・キャパ賞が設けられた。その受賞者34名の内、日本人は僅か1名に過ぎない。そしてこの間世界のジャーナリスト300名が命を落としている。正に危険と隣り合わせの職業である。

  野嶋さんは第一海兵師団に配属になり、クェートのキャンプに赴いた。先ず天然痘や炭ソ菌の予防注射、そして早速10キロに及ぶ生物・化学兵器用の防護装備の支給と使用方法の訓練があった。日本と違ってアメリカはオープンな国、報道の制限は、開戦の時期と死者の個人名と所属のみで、後は自由との事。
  この師団のメンバーはソルトレークシティとラスベガス出身の公務員が多かった。殆どが日本駐在の経験があり、気さくに話し掛けてきて、とても親しみ易かった。驚いたのは食事で、位の低い人から先に食べる。若い方が腹が減ると言う事だが、いかにも民主的なお国柄が出ている。

  さて戦争はなかなか始まらない。仏・独が強硬に反対しているからだ。兵士たちは次第にいらだつ。気温は次第に上がってくるし、砂嵐の時期は迫ってくる。早く始めて早く故郷へ帰ろう。そのいらいらはフランスに向けられる。先の大戦の時に、どんなにアメリカに助けられたか忘れたのか。劣悪の環境の中で、多くの兵士を長期に止めておくのはいかに大変な事か。
  色々もめたが、米英の強攻策によって戦いの幕は切って落とされた。連隊の記者が集められ、連隊長が地図を前に作戦の説明をした。いかに皆さんを信頼してとは言いながら、軍の最高の機密をよく知らせるものだ。わが国では到底考えられない。ここまで信頼されると却って抜け駆けは出来ないものだ。

  戦闘の状況はわが国にも報道された通りで、詳細は避ける。バクダットまで400キロ、トラックは6車線の高速道路を、時速10キロのスピードでゆっくり北上する。イラクの正規軍の抵抗は殆どない。当面の目的地ナーシリアに近づく。サダム・フセイン殉教団が潜伏している。正規軍より遥かに装備が良く、士気も高い。隠れ家一軒づつ潰していかねばならない。市民が盾になっている事もあり、神経を使う。
  その内その一軒から生物・化学兵器の防護装備を押収してきた。広報担当がこれを流せと言う。どうもプロパガンダの匂いがする。野嶋さんは実際に見聞したものしか報道しない事にしている。結局これは没にした。
  やがてナーシリアで殉教団と激しい市街戦になり、ここを制した。いよいよバクダット目指して進軍。チグリス・ユーフラテス川に挟まれた豊かな穀倉地帯に入る。はるか四千年の昔に思いをはせる。アメリカ兵は全然興味を示さない。何でもアメリカ人は建国二百年の歴史しか関心を示さないようだ。
  クートを迂回してバクダット100キロの地点に到達。この頃より本社から盛んに帰還命令がやってくる。ナーシリアでの激戦の記事を読んで、そんな危険な所に社員を送れないと思ったのであろう。もし事故があれば上司に非難が集まる。朝日新聞社もただではすまない。然しバクダットまで後100キロ、一番おいしい所を目の前にして引き返すなんて、世界でも日本だけかも知れない。米兵はもうちょっとなのにと別れを惜しむ。ヘリが飛ばなかったと言えばよいではないかと教えてくれる。
  軍隊は前に進むように出来ている。一人で引き返すのは大変だ。結局負傷者の輸送の便に同乗させて貰って何とかクエートに辿り着いた。
  
  野嶋さんはこんなジレンマを書いている。私は中立であるべきジャーナリストである。従軍して、アメリカ兵に守られ、アメリカ兵と生死をともに行動している。イラク軍に弾が当たれば思わず喝采を叫んでしまう。
  野島さんを派遣するについて、朝日新聞の中で、アメリカのプロパガンダになるような事は好ましくないという意見もあったようだ。野嶋さんはジャーナリストとしては、あくまで現地に赴き、実際に見聞した事を正確に伝えるべきだと考えている。幸いアメリカ軍からは殆ど報道管制のようなものはなかった。
  
  イラク戦争は、途中砂嵐とか、兵站が伸びて補給が追いつかないといった問題があったが、予想より早く終わった。然し戦後の復興は日暮れて道遠しの感がある。よく日本やドイツの戦後の復興が引き合いに出されるが、大分事情が違うようだ。
  桜井哲夫の「アメリカ人は何故嫌われるか」を読むと面白い事が書いてある。戦後日本人から50万通の手紙がマッカーサーに寄せられた。それらの手紙にはマッカーサーを褒め称え、日本はアメリカの植民地になった方がよいとすら言っているものがあるそうだ。そこまでいかなくても、当時の親米感情は高かった。アメリカもおおらかで、日本に対し様々な援助を行い、その復興を支援した。それを受ける日本人はポテンシャリティ高く、復興の精神に燃えていた。
  イラクの場合はそうは行かない。アメリカが独裁者フセインからの解放を掲げ戦ったのに、一向にアメリカに感謝する気持ちがない。フセインも要らないがアメリカも要らないと言っている。と言っても自分達で政治的に纏める力もない。経済的に見ても石油以外にはこれといったものは見当たらない。
  そこへバース党の残党がゲリラ活動を仕掛けてくる。ブッシュ大統領の戦争終結宣言後の2ヶ月で、37人の兵士が死んでいる。フセインの生死は不明だ。大量破壊兵器は見付からない。世界の、国内の世論は厳しさを増す。アメリカでも厭戦気分が広がって来ている。
  一年ほど前、「ワンス・アンド・フォーエバー」という映画を観た。ベトナムの最激戦地で多くの兵士が死ぬ。その通知が国元に届く。同じ出身地の人が部隊を編成するので、ある地区に纏まって死亡通知が届く。郵便配達がベルを押すと、奥さん達はギョッとして生きた心地もない。
  ベトナムの例を見るまでもなく、戦争の大義が失われてくると、戦意を維持するのが難しくなってくる。
                         ( 2003.07 )