閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
問題な日本語        
       ――― 北原保雄 編


  レジに行って一万円札を出すと、「一万円からお預かりします」という言葉が返ってくる。何時の頃からか知らないが、どこへ行っても同じ言葉が返ってくる。あるときレジの娘さんに「一万円から何をあずかるの」と聞いてみたら、「お代金です」という答えが返ってきた。代金は頂くもの、お預かりするのは一万円ではないのか。
  最近日本語が乱れてきた。ことに若い人の話を聞いていると、外国語ではないかと思わされることがある。最近それを心配してか、正しい日本語を解説した本がたくさん出ている。本屋にも日本語コーナーが設けられている。その中で一番売れている「問題な日本語」を求めてきた。

  冒頭からウエイトレスがよく使うおかしな日本語が並ぶ。「おビールをお持ちしました」。客の鞄を持ってきたという場合は「お鞄を」はおかしくないが、ビールは相手のものではないのでおかしくはないか。しかしこの場合、上品な物言いをして自分の品位をたかめる為の美化語であるので必ずしもおかしいとは言えない。その使用には個人差がある。ビールは「お」をつけなくても言いやすいが、酒は乱暴に聞こえる。お天気・お茶・お釣り・お寺・・・・等も「お」をつけないと言いにくい。お米・お味・お刺身・おせんべい・お水・お花等では「お」をつけない人が増えてきている。おビールは飲食店ではもはや定着してきているが、おジュースはまだ違和感を覚える人が多い。
  さて「お持ちする」のほうは自分の行為だから、「お」をつけるのはおかしくないか。「お〜する」は謙譲語だから問題はないと考えてよいのではないのか。しかし大正の頃にはこのような言い方はなかったそうである。
  美化語・尊敬語・謙譲語と入り乱れ、相手と自分の年齢差とか、地位とか、親密さとか、性別などによって使い分けて行く。つくづく日本語は難しい。敬語でひとくくりにして、やたら上品ぶって乱用する人がいるが耳障りだ。
  
  最近気になるのは「全然いい」という言い方である。若い男性がよく使う。私なんか全然と聞こえてくると駄目かと思ってしまう。するといいと続くので勘が狂ってしまう。ところが全然を肯定形に使うのは江戸時代からあったし、明治の文豪も使っていたそうである。ただし現在のように「とても、非常に」と程度を表すのではなく、全く然りという本来の使い方であったようだ。「全然いい」はどうも断然との混同ではないかとのこと。
  近頃よく使われる言い回しに、「私って・・・じゃないですか」「・・・てことあるじゃないですか」というのがある。もともと断定とか確認の意に使われていたものである。しかしわかりきっていること、その反対の知るはずの無いことについて「・・・じゃないですか」と言われると、そんなこと決まっているじゃないか、そんなこと知らないのですかと言われているようで、聞き手を不快にさせることがある。しかし最近少し気取った言い回しによく使われ、聞き手を不快にさせるなんて思ってもいないようだ。

  この本では触れられてないが、最近テレビを見ているとやたらと偉い人が出てきて謝っているシーンが映し出される。異口同音に「あってはならないことです・・・」と言って頭を下げる。この言い方は何か客観的事実を説明しているようで、責任を問われて謝っている感じがしない。「あってはならないこと」だが「あった」のだからどうしてくれると言いたくなる。

  若い人の間で流行っている言葉に「超」と「的」がある。アテネ・オリンピックで北島選手がゴール・インしたとき「超気持ちエエ」と言っていた。この場合は優勝したのだから違和感はあまりなかった。しかしなんでも強調するときに「超」をつけるのはいかがなものか。
  又最近「的」が若者の間に流行っている。中国に行くと「的」という字がやたらと目に付く。その影響なのであろうか。「自分的には」「わたし的には」から始まって、「仕事的には」「暮らし的には」「気持ち的には」・・・なんでも「的」をつける。なんとも奇妙な感じがする。「的」が流行るのは物事をはっきり言わないで、あいまいにぼかす風潮に起因しているようだ。
以前に面接試験に出ていたら、「わたしの兄弟は三個です。姉が一個、弟が一個」。これにはびっくりした。日本語の数は難しいと外人がよく言う。しかしその複雑さが微妙なニュアンスを呼ぶのだ。

近頃ワープロを時々使うようになって驚いた。いくら変換キーを押しても変換しないことがしばしば起こる。この「問題な日本語」に「使うのはどっち」という欄がある。百八題出題されているが、やってみると正解率七十%。これではワープロも変換しないはずだ。反省することしきり。殊に送り仮名が難しい。ワープロでも二通り出ているものもある。識者に聞いたら、その場合はどちらでもいいのですという答えが返ってきた。送り仮名は文法がわからないと出来ないのでお手上げである。

日本語そのものの問題ではないが、だいぶ前から女性の間で語尾を延ばしてあげる言い方が流行ってきた。そのうちに途中疑問形というか、言葉の途中で時々上げる言い方をする人が現れた。なんとも耳障りであると思っていたら、近頃少し下火になってきたようだ。この言い方は自分の意見に自信が持てなくて、相手の反応を見ながら喋るからだと思う。
そういえば耳障りとは不快なことを表すものとばかり思っていたら、近頃耳障りのよいことばかり言って、と言う表現が使われる。これは耳障りとは別語の耳触りだそうだ。ことごとさように日本語は難しい。近頃の若い者は日本語も知らないと怒ってばかりもいられない。

まだ学生の頃、軽佻浮薄な輩がいて、やたらと新語を開発しては喜んでいた。その尻馬に乗ってそれを流行らせる奴が出てくる。たとえば悪いというのをあくいと発音する。あくいはたちまち流行る。すると今度は、はくいと発音する。又これが広がりはくい奴が使われるようになる。
言葉は生き物だ。万古不易のものではない。誰が言い始めるのか新語が生まれる。コミュニケーションが格段に発達した時代だ。流行のスピードは速い。何も万葉や平安の時代の言葉を使えといっているのではない。しかし超気持ちエエでは何か違和感がある。あまり早い言葉の変化は世代間のコミュニケーションを阻害することになりはしないか。少なくとも、話の意味はわかっても気持ちは伝わらないのではないか。昨今若者の国語力が衰えていると聞く。きわめて憂慮すべきことだ。
まだまだ「問題な日本語」は続くが最近気になることを少しあげてみた。

                     ( 2005.03 )