閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 中欧に旅して  
         

  東西対立の時代には無かったが、近頃中欧と言う呼び名が使われるようになった。この地は東西の狭間にあって、昔から独自の歴史や文化を伝えて来ている。我々にとっては特に音楽との関わりが深く、以前から訪れてみたいと思っていた。
  イラクが終わり、SARSが納まったらなんて言っていたら、こちらの歳の方があやしくなってしまう。元気なうちにと、「中欧の街を訪ねて十三日間」というツアーに参加する事にした。
  十二時間の旅は長い。何か読むものはないか。家の者が「ケストナーの終戦日記」を手渡してくれた。ちょうどいい。戦禍のひどかったベルリンやドレスデンの復興振りを見るのに参考になりそうだ。
  児童文学者ケストナーは、終戦の年の二月二日から八月二日までの日記を書き綴っている。この間ケストナーはベルリンからチロルを経てバイエルンに移動している。敗戦の道は険しい。私は東京にいて終戦を迎えたが、この本とは大分様相が異なる。我が国の場会沖縄を除いて地上戦が無かったからであろう。国家と言う組織を保つ最低の秩序があった。西から連合軍、東からソ連軍、組織的抵抗を失ったナチス・ドイツ軍。ケストナーの日記は見たままの様子を伝えている。

  ベルリン観光の目玉はなんと言ってもブランデンブルグ門であり、東西の壁である。この壁をハンマーで打ち壊し、この門の前でロストロボーヴィッチが「歓喜の歌」を振った映像は今でも目に焼きついている。それから十五年、観光客は壁をバックに、門をバックに盛んにシャッターを切っている。平和に見えるが。
  東西の壁の間は七、八米ある。この壁を乗り越えて東から西へ、射殺された人は三百人を超えるという。壁の崩壊、東西ドイツの統一はドイツ人の、殊に東ドイツの人々の夢であった。果たして十五年の歳月はこの溝を埋めたであろうか。
  新聞に出ていた。旧東ドイツの失業率は西の二倍で、ドイツ経済の不振の理由の大半はこの統一で説明できる。旧東ドイツの二十%の人は壁が存在した方が良かったと今でも考えている。・・・・
  バスで市内を一巡する。旧東ドイツの繁華街ミッテ地区は何となくさびれている。シャッターの下りている店も散見される。現地人ガイドによると、市当局はこの地区の振興に力を入れているが、一向に盛り上がらないそうだ。後で回った西のクーダム地区の繁栄とは真に対照的である。ガイドの話は続く。縁談でも東だ西だと今もって煩い。
  四十年以上全く違った体制の中に育った人が合体すると言う事は如何に難しいか。近頃企業の合併が大流行であるが、一つの組織にまとまるのには三十年かかると言う。それは合併後入社した人が大半を占めるに要する歳月であろう。アメリカは異文化を統合する事に慣れているが、トラディショナルな社会ほど難しい。南北朝鮮の統一は大変問題が多い話だ。

ベルリンの近郊にあるポツダムを訪れた。ポツダム宣言が発せられた歴史的な場所である。緑に包まれた高級別荘地を抜けると、大きな池を前にして瀟洒な小城が見える。ドイツ最後の王ヴィルヘルムUが王子と家族の為に建てたもの。
英米中の三国(ソ連はまだ不参戦)は一九四五年七月二十六日、日本に向けてポツダム宣言を発した。軍隊の解除、領土縮小、戦争犯罪人の処罰。我が国はこれを無視し広島・長崎を招いた。
トルーマン、チャーチル(途中からアトリーに代わる)スターリンが会した部屋、それぞれの執務室、しばしガイドの説明を上の空で感慨に耽っていた。この小さくて質素な部屋。ここで日本の運命が決められたのだ。

ライプチッヒはバッハの町だ。ゲーテも顔負け。ホテルの前の広場の左手には新ゲバントハウスのコンサートホール、右手にはクラシックなオペラハウス、正面にはゲーテも学んだと言われるライプチッヒ大学、何か見ているだけで興奮を覚える。
町の中心を抜けると、バッハが晩年の二十七年間を過ごした聖トーマス教会が見えてくる。祭壇の手前にはバッハの墓がある。教会の隣にはバッハが住んでいた家、向かいはバッハ記念館。
そう言えば昨年の二月、シンフォニー・ホールで「マタイ受難曲」を聴いた。ライプチッヒのゲバントハウス・オーケストラと聖トーマス教会合唱団の組合せであった。彼等はこういう所からやって来たのだ。あの素晴らしい音楽はこのような風土で育ったのだ。

ドレスデンは原爆をのぞき、一回の空襲で最も多数の死者を出した事で歴史にその名をとどめているが、(東京大空襲の方が上のようであるが)両都市の復興には大きな差がある。勿論木と石と言う材料の差が大きいが、古いものを大切にする文化と消費経済に毒されている文化の違いによるところが大きい。
ドレスデンに行って驚いた。戦後六十年経ってもまだ復興をやっている。あたかも遺跡を発掘するように丁寧に土を掘り、瓦礫をとりだし、元の建物の元の位置に戻し復元していく。この根気の要る作業はまだ二十年掛かると言う。
今東京を歩いてみてどうだろう。戦前の建物はおろか、戦後建てられた建物まで最早残っていない。ドレスデンの教会のまだらの壁を見ていると、よくぞここまでやるなと感心させられてしまう。

プラハは塔の町と言われている。美しい塔が林立してどこから見ても絵になる。ガイドブックに撮影ポイントが紹介されているが、ともかく道も橋も広場も観光客で埋まっており、カメラどころではない。教会のあちこちでプチコンサートが催され、盛んにチラシが配られている。千円前後の格安の値段。心が動いたが夜の帰還が危ないと言うので諦めた。
「プラハの春」で有名なヴァツラー広場に行く。この広場がソ連の戦車で埋まったのだ。それに抗議して大学生のヤン・バラクが焼身自殺した。その記念碑が立っていた。この事件でソ連は国際的批判を浴び、その威信は傷ついた。自由を求める声は東欧諸国に広がり、ベルリンの壁崩壊につながっていった。青年の死も無駄ではなかった。

リンツ。モーツァルトの交響曲第三十六番はこの町で作曲された。この町は又ブルックナーの生誕地でもある。ここの旧大寺院でブルックナーは十三年間オルガン奏者を務めた。リンツ城からの眺めは素晴らしい。ドナウ川が大きく曲がり船が行き交い、交通の要所になっている。

ウィーンとブタペストは以前に訪れた事があるので、前回見ていないところを重点に回った。先ずウィーンの森を訪れる。ルドルフ皇太子の自殺したマイヤーリングの別荘を訪ねる。意外と簡素なつくり。「うたかたの恋」を思い出しながら見て回る。
ウィーンの森に触発され、ハプスブルグ家の歴代の墓に参る事にした。オペラ座の近くのカプチーナ教会の地下に一三八基の棺が並べられている。フランツ・ヨーゼフは勿論、ルドルフもマリー・アントワネットも、そしてマリア・テレージアも。・・・・それぞれの格に応じ棺の装飾は異なるが、ハプスブルグ家栄光の証人として静かに眠っている。
ベルベデーレ宮殿でクリムトとエゴン・シーレの絵を観る。初期の作品に興味が引かれた。シェーンブルグ宮殿はバスで回ったので、残る王宮を見学することにする。夕陽に映えるその姿は真に雄大で、在りし日のハプスブルグ家の栄光を偲ぶことが出来た

ブダペストでは西洋美術館を訪ねた。スペイン絵画の特別展をやっていた。グレコ、ゴヤの絵を数点見ることが出来た。以前マドリードの美術館で見たときはさすが本場、圧倒的な質と量があったが、特別展の割には期待はずれであった。
町を少し歩きリストの記念館に寄る。リストの愛用したピアノが三台置いてあった。ずっと以前に観た映画で、リストが猛烈な勢いで鍵盤を叩き、ピアノ線を切ってしまうシーンがあった。そんな事を思い出しながらリストの手形を眺めた。思ったより小さかった。

今回触れなかったが、中欧には中世以来の立派な宮殿、教会が数多く残されている。数多の戦乱の中、それらは補修・改築され今日に伝えられて来ている。殊にどの教会のステンドグラスも見事だった。彼等はそれを地中に埋めて戦禍から守ってきている。
東西の狭間、今又自由競争の闘い、この伝統を受け継ぎ発展させるには更なる努力が必要である。         ( 2004・12 )