閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
リンドバーグ      
        ――――A・スコット・バーグ

                                          
  「翼よ、あれがパリの灯だ」リンドバーグの初の大西洋単独無着陸飛行の快挙を映画化したもの。大分昔の事でよく覚えていないが、リンドバーグが狭いコックピットの中で睡魔と闘うシーンが延々と続いていた。
  リンドバーグはこの歴史に残る大冒険によって生涯マスコミに追われ、世間の注目を浴びながら生きていかねばならなかった。世の中には新庄の様な目立ちたがり屋も居るが、リンドバーグは真面目な性格で、人目に立つ事を嫌っていた。この快挙がなかりせば、全く違った人生を歩む事になったであろう。
  マスコミは秘すれば秘するほど、特種を得ようとする。遂にはでっち上げの記事も出てくる。この千ページに及ぶ伝記は、氏の波乱万丈の人生を、マスコミとの闘いを記して興味が尽きない。
  リンドバーグの成功から二週間後、大西洋無着陸横断に成功した人達がいた。彼等はリンドバークのパリ到着を知り、更に距離を延ばしてベルリンの近くまで飛んだ。然し所詮二番煎じ、二人乗りもマイナスで、歴史に名を止める事はなかった。

  著者A・スコット・バーグは、ある出版社からリンドバーグの伝記を書かないかと誘われたが、遺族が資料を公開しなかったので実現しなかった。その後一年間遺族との遣り取りがあり、遂にアン・モロー未亡人から二千箱に及ぶ資料全てを公開しても良いという許可が出た。未亡人は文才があり、日記文学のジャンルで業績を残した人である。

  リンドバーグの伝記は大まかに言って四つの時代に分かれる。最初は大西洋横断に成功するまで。この時氏は二十五歳。次は息子の誘拐事件。三番目は第二次世界大戦の不遇の時期。最後は自然環境保護に力を注いだ時期。もちろん彼の生涯を決定づけたのは大西洋横断の快挙である。本人もその後の人生がこんなに翻弄されようとは、パリのブルージュ空港に降り立つまでは想像もしなかったであろう。

  リンドバーグはスエーデンからの移民三世である。両親の仲が悪く、孤独な青春を送り、どちらかと言えば自己陶酔的な青年であった。彼は飛行機の操縦を習う為にカレッジを中退した。やがて陸軍飛行学校に入り腕を磨いた。
  学校を卒業後リンドバーグは、当時勃興してきた航空郵便のパイロットになった。そこで危険を冒して厳しい飛行を体験した。然し彼には夢があった。大西洋を横断してパリに行く事である。その冒険に懸賞が掛かった。幾人の人が挑戦しようと熾烈な先陣争いになった。
  1927年5月20日、25歳のリンドバーグは単発の小型機で、ニューヨークからパリを目指して単独で飛び立った。33時間の飛行は孤独と睡魔との闘いであった。やがてアイルランド上空を通過したと言う情報が入った。パリ市民は一斉にブルージュ空港に向かった。パリ中心部は人で埋まった。飛行機が空港に着陸すると、一万五千人の観客が飛行機めがけて殺到した。
  フランスでの国を挙げての歓迎会が終わると、イギリスが待っていた。王室をはじめとする国中が歓迎一色で染まった。そして本番のアメリカ。ニューヨークでは二千トンの紙吹雪が舞った。電話帳が無くなったと言う。この書を読むと、アームストロングが月世界から帰った時よりすざましい歓迎振りのように思える。
  当然のことながら、この名声を利用して一旗挙げようとする人が沢山現れた。然しリンドバーグはそれ等を断り、自分は航空産業振興のため人生を役立たせようと決心する。

  やがてリンドバーグはメキシコ駐在大使の娘アン・モローと結婚する。彼女も夫と同様目立つ事が嫌いな性格であった。
  ここに悲劇が起こった。この世界一の有名人の息子が誘拐されたのである。この話にヒントを得てアガサ・クリスティーが「オリエント急行の殺人」を書いた。私は映画を観たが類似性はないように思えた。
  誘拐犯から身代金の要求があった。リンドバーグは裏の世界の人を通じ、犯人と接触し、身代金を渡した。しかし息子は家の近くの納屋の中で死体で発見された。そして程なく工事人の犯人が捕らえられた。
  この事件にマスコミは群がりすざましい報道合戦になった。そしてそれが裁判制度や報道のあり方の見直しにまで発展した。裁判の結果は物証の無いまま陪審員全員の評決により死刑となったが、後々までも後味の悪い結果を残した。

  この事件により、リンドバーグはあまりに世間から騒がれるのに嫌気がさして、居をヨーロッパに移した。然しこの世界的著名人を世の人はほって置かない。ヨーロッパでは様々な民間の親善大使として活躍するようになる。そして又そのことが彼の人生に大きな影響を齎す事になった。
  リンドバーグはドイツの航空機の事情に興味を持った。あくまで民間人という立場で視察を行った。そしてアメリカに、ドイツの空軍がいかに優れているか警告を発した。ドイツの上層部はこの航空界の有名人を歓迎し、勲章まで送った。
  やがて第二次世界大戦、アメリカでは戦争に参加すべきでないと言う運動が起こった。リンドバーグは積極的にその運動に参加した。有名人の参加は影響力が大きい。リンドバーグは親独、反ユダヤのレッテルを貼られ、ローズベルトの不興を買った。これは全て誤解であったが、レッテルは剥がれなかった。
  日本の参戦もあり、愛国者リンドバーグは空軍を志願したが断られた。しからば航空機の軍需産業でお役に立ちたいと志願したが、ここでも断られてしまった。結局民間の航空機の会社に入り、南方方面に赴いた。彼は此処で新しい飛行方法を開発し、従来の飛行機の航続距離を飛躍的に延ばし、大いに空軍に貢献し評価を高めた。リンドバーグは不死鳥の如く甦った。

  世の中が平和になるに従い、人々の関心は地球環境に向いてきた。リンドバーグは大西洋横断が地球の距離を縮め、人類に大いに貢献できると信じていた。所が晩年、地球の距離を縮める事は、地球環境を悪化させる事につながると思うようになってきた。リンドバーグは世界各地を回って、様々な自然保護活動に身を投じていった。寄付もかなり行っている。
  そして最晩年にはマスコミを避け、ハワイのマウイ島で静かに余生を送り七十二年の生涯を閉じた。マスコミも最早追いかけては来なかった。

  20世紀を通じマスコミを最も騒がせたのはリンドバーグかも知れない。現代は情報社会。未知なものは少なくなり、又情報は共有化されている。科学技術は次々と未知なものを既知なものに変えていく。不可能なものを可能にしていく。
  然し、マスコミが人間の運命を変えてしまうと言う事はいかがなものだろうか。芸能人とかタレントと言う種族は、マスコミの人気に乗って出世していく。然し、それを嫌う人を無理やりに桧舞台に立たせ、本人の意に反する方向に持って行ってしまうとは。
  リンドバーグがあれほど有名にならなければ、息子を誘拐される事も無かったであろうし、ローズベルトに嫌われ、非国民呼ばわりされる事も無かったであろう。
  人の一生を、人の運命を変えてしまうマスコミ。近頃は国家の運命をも変えてしまう。湾岸戦争でも、イラク戦争でもマスコミを動員してのプロパガンダは益々エスカレートし精緻になってくる。一国の世論がそれにより左右され、多くの人命が失われたり助かったりする。昔は大本営発表を単純に信じていたのに。 
  最後になるが、このリンドバーグの話は、近くスピルバーク率いるドリームワークスが映画化する事を決定している。果たしてどんな映画になるだろうか。
                        ( 2003.04 )