閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
早慶戦、何と懐かしい響きを持っているものか。塾歌,校歌、エールの交換があって、一瞬の静寂、サイレンが鳴る、鳩が空中に舞う。興奮は最高潮に達する。しかし思い出深い早慶戦は戦いすんでからである。銀座に新宿にどっと繰り出す。夜の早慶戦は大騒ぎ。
太平洋戦争の最中、野球はアメリカのゲームであると言うことで中止になる。東京六大学野球連盟は解散、一部の熱心な学生が自主的に練習に励んでいるという状況になった。 そんな中、早稲田の野球部の顧問、飛田穂州は「此の儘では日本の野球は滅亡する。早稲田は最後の一校になっても頑張りたい」。と決意した。早稲田の野球部は合宿所に残り練習を続けた。このような状況から、野球を続けたいと言う息子と、反対する親としばしば争いが起こった、
その頃、文系学生の徴兵猶予の停止が発表され、二十歳を過ぎた文系学生は直ちに国許へ帰り、徴兵検査を受け、入営と言うことになった。 飛田は学生達に何か最後の思い出を作ってやりたいと思っていた。そんな折、慶応の塾長、小泉信三が飛田を尋ねてきた。塾長の言うのには、戦場に赴く学生達に何か生きた証を残してやりたい。それには是非共最後の早慶戦を行いたい。 飛田はこんないい企画はないと大賛成。これを聞いた選手達は合宿所で祝杯を挙げて大喜び。しかし困難はそれからだった。早稲田大学の総長が猛反対した。ゲームを強行すれば、軍や文部省の神経を逆なでにし、どんないちゃもんが入ってくるかもしれない。 飛田の説得は続く。総長もついに飛田の熱意に負け、トラブルの責任は一切自分が持つと言って、許可を出した。想い出の神宮球場は問題があろうと、早稲田の戸塚球場で試合が行はれることになった。時に昭和18年10月16日の事である。
野球は慶応が国許へ帰ってしまった選手が多く、練習不足で10対1の大差で敗れてしまった。勝敗はどちらでもいい。戦いが終わって両校がそれぞれ相手校の応援歌を歌いエールの交換し、戦場で会おうと叫びあった。そのとき何処からともなく「海行かば」の歌が聞こえてきた。最後の早慶戦は選手は勿論、応援団の人々の胸にも深く刻まれた。
映画の最後は降りしきる雨の中、神宮外苑での学徒出陣である。早慶戦の想い出を胸に抱き出陣した早稲田の野球部員のうち、4名の尊い命が大戦で失われた。
ラストゲームの話は知らなかった。子供の頃、ボール投げをして遊んでいると、野球は敵性国家のスポーツであるといわれたのは覚えている。それにしても軍や文部省の圧力を押し切って、徴兵猶予停止と言う最悪の事態の中で、よくラストゲーム実施までもって来られたものと感心する。飛田穂州の野球にかける情熱、選手達に何か思い出を残してやりたいという親心には感銘を受ける。それに慶応の塾長の力もあったのだろう。
早慶戦の思い出は数々ある。私にとって少々不謹慎であるが、夜の早慶戦の方が思い出深い。勝っては祝勝会、負けては残念会。銀座に繰り出す。この日ばかりは面識のない先輩がおごってくれる。祝い酒を出してくれる店もある。貧乏学生はここぞとばかり飲みまくる。一般客も今日ばかりはこの騒ぎを大目に見てくれる。 私が二十歳になり、初めてアルコールに接したのはこの早慶戦である。タダ酒をがぶ飲みグロッキー。翌日眼が覚めたら我が家の布団の中。どうやって帰ったか分らない。 二日酔いの苦しさも初めて味あう。 程なく戦後の復興も成り、世の中派手になってきた。そこかしこで酔ってトラブルを起こす者も出てきた。応援指導部の人達が辻に立って取り締まるようになった。 社会に出て東京を離れ早慶戦のことも次第に関心がなくなってしまった。東京の友人に聞くと、昔の騒ぎはないと言う。マスコミでも取り上げることはない。先日ある会合で銀座のライオンに集まった。昔の激戦地。夜の早慶戦の出発地。あれから半世紀、店は少しも変わっていない。此処でビールの大ジョッキーを空け、出陣して行ったものだ。早慶戦の思い出はライオンにつながる。 しかし銀座は変わった。外に出てみると、高級ブティックや宝飾店が軒を連ね、道端には外人観光客のバスが連なっている。
この映画を観て改めて思った。早慶戦の伝統は先輩達の並々ならぬ努力によって作り守られてきたのである。我々が銀座で飲んだくれている陰には、多くの先輩達の犠牲があったのだ。あの学徒動員の雨中の行進を見るたびに平和の有難さをしみじみ感じる。
( 2008.09 ) |