閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次

クワトロ・ラガッティ          

―― 桑野 みゆき

  もう十年ほど前のこと、スペイン・ポルトガルのツァーに参加したことがある。大航海時代、リスボンは世界に向って開かれていた。海かと見紛うばかりの幅の広いテージョ河を望んで、英雄達の「発見のモニュメント」が波打ち際に建っていた。

振り返ると壮麗なジェロニモス修道院が見える。ガイドの説明によると、この修道院に、四百年以上昔、はるばる東洋の果て日本から四人の少年の使節団がやってきたと言う。今なら二十時間もあれば到着するが、当時は風待ち、暴風よけなどで一年がかりの旅であった。リスボンに上陸した少年達は、並みいる僧侶や貴族の前で堂々とその使命を果たし、日本の名を高からしめた。

  何となくそのときの話が頭に残っていたが、最近書評欄に「クワトロ・ラガッティ」(四人の少年達)と言う本が載っていたのが目に留まり、面白そうだったので早速読んでみた。この本は五百頁を超えるノンフィクションの大作で、わが国のキリスト教の伝来から追放に至る歴史を、国内外の資料を丹念に調べ書き上げている。当初四人の少年の話を小説風に書いているものと思っていたら大違い、読むのに大変苦労してしまった。

  一五四九年、ザビエルによってキリスト教がわが国に伝来した。そして一六一三年に秀吉によって禁止令が出た。更に二十年後には第一次鎖国令が発せられた。本書はこの八十年ほどの間のわが国のキリスト教布教の歴史をつづったものである。

  キリスト教伝来の初期の段階では、九州の雄藩大友・大村・有馬は積極的にこれを取り入れようとした。それには貿易によって利益を得ようとする功利的な考え方が多分にあった。来日したイエズス会の宣教師達は日本人、特に武士達の知識レベルの高さに驚いた。

  武士達はこの新しい教えや、西欧の事物に大変興味を示した。一般民衆はこれまでの宗教が武士を対象にしたものであり、庶民の救いにはならないものだと思っていたので、このキリスト教の教えに共鳴し、信者は急速に増えてきた。イエズス会サイドもこの日本のレベルを考え、従来の布教のあり方を改め、日本に適した方法に変えた。学校も各地に作り、日本人宣教師育成にも力を入れた。

  信長は新らし物好きである。加えてかねてより仏教徒の堕落振りに我慢がならず、ことごとくこれに弾圧を加えてきた。そんな折キリスト教が入ってきた。信長は未知の世界の情報や物品に異常な興味を示した。新装成った安土城にポルトガルの宣教師を招き、親しく面談した。先日観た芝居[信長]の中で、ここのところが面白く演じられていた。

  そればかりか信長は安土城の城下に壮大な館を築き、それを宣教師に寄贈した。それは住居・学校・教会を兼ねるものであった。この頃がイエズス会にとっても最良のときであった。そしてポルトガルの商人にとっても、信長の恩恵に浴したよき時代であった。

  クワトロ・ラガッティは先にあげた諸藩から選抜されたエリートである。知識レベルが高く、語学力もあり、人品骨柄卑しからず、正に日本を代表するに相応しい少年達であった。訪欧の目的は、イエズス会としては、日本人が欧州に出向いてその文化レベルの高さにじかに触れ、それを日本の人達に知らせて欲しいと考えた。又逆に欧州の人たちに日本にはこんな素晴らしい少年達がいると言うことを知ってもらいたいと思ったのである。所謂文化使節団のようなものである。

  リスボンのジェロニモス修道院を皮切りに、少年達はスペイン各地を巡りローマに向った。各地で王侯貴族やキリスト教関係者に接し、立派に親善のセレモニーをこなして来た。中でも着物姿は好評で、どこでも着用の要望があった。

  イタリアは沢山の王国があり、各地で歓迎を受け、なかなかローマにたどり着けなかった。少年達に謁見すると、教皇にはことのほかお喜びの様子で、親しく話を交わされた。残念なことに、教皇はその数日後死去された。少年達はその大葬儀に役をもらって参列した。

  少年達は期待以上に大役を果たし帰国の途に着いた。しかしインドまで来たときにとんでもない報せが入ってきた。信長の死である。本能寺で討たれた。四人の少年の前途に暗い影が差した。

  これはキリスト教側にとっても大変な痛手であった。ザビエル来日僅かの歳月で信者十五万人、教会二百余りと大変な勢いで伸びてきたキリスト教に、一大転機がやってきた。信長の後を襲った秀吉は、一旦はキリスト教の布教を認めたものの、すぐにキリスト教禁止令を出した。四人の少年達は帰国時こそ歓迎を受けたものの、その後は恵まれず、一人は棄教してしまった。

  秀吉は出自が卑しい。金銀財宝の贈り物には目が無い。又貿易による莫大な利益も見逃せない。当初はキリスト教を通じてその恩恵にあずかっていた。しかしキリスト教の信者の増加は目覚しく、又貿易商も新興のイギリスやオランダが加わり、その勢力も侮りがたくなってきた。その上既存の宗教―仏教や神道サイドからの讒言も激しく、秀吉もこのまま放置出来ないと考えるようになった。

それに加えてキリスト教側も後から進出してきたフランチェスコ会とイエズス会との確執、ポルトガルと新興オランダ・イギリスとの商売上の争いもマイナスに働いた。

  かくして殉教、棄教の歴史が始まった。それは徳川時代に入っても激しさを加え、家光の時代には二十八万人の殉教者が出たと言う。

  クリスチャンである遠藤周作の名著[沈黙]は殉教、棄教の話を書いたものである。人間はどうしてこんなにも残酷になれるのであろうか。次から次へと長く苦しみがつづく拷問の方法を考え出す。中でもこめかみを切って井戸に逆さ吊りするのは厳しい。そんな苛酷な拷問に耐えている信者の耳に神の声が聞こえてくる。「踏むがいい。お前の足の痛みをこの私が一番よく知っている」。・・・・

  先日「出口のない海」を観た。人間魚雷「回天」の話である。魚雷の中に入れば最早出られない。発射されればもう戻れない。特攻機より厳しい。正に出口の無い海である。これが神風特攻機と共に日本が開発した究極の兵器なのだ。まことに悲しい話ではないか。

  近年イスラムの世界では自爆テロが頻発している。彼らはそれを自爆テロではなく、聖戦だ、殉教だと言っている。回天や神風は殉教ではない、殉国である。

  日本は無宗教の国、殉教なぞ到底考えられないと思う。しかし豊臣・徳川の時代、世界でも稀に見る殉教者を出し、その後も厳しい取締りの目をくぐって、隠れキリシタンとして残った。それも先祖伝来の宗教というのではなく、僅か八十年の歴史しかないのに。

                           ( 2006・10 )