閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 紀伊の山々
 
 
  和歌山の海南に、藤白神社と言う小さな社がある。その境内に有馬の皇子の墓がポツンと建っている。皇子は赤兄の奸計によってこの地で処刑された。その藤白神社の横の道を登っていくと、間もなく展望が開け、和歌浦が一望される。この道が熊能古道の出発点である。その時は熊野古道を歩こうと思ってきた訳ではなかったので、その辺りで引き返した。もう今から十年程昔の話である。
  その頃からか、熊野古道の人気は徐じょに高まり、訪れる人も多くなってきた。しかし山深い交通不便なところ故、一般観光客は少なく、信仰を持った人が中心であった。パンフレットに書いてある。「道だけ残っても意味ない。修行しているから意味ある」。
  平成十六年七月一日、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産に登録された。高野山・吉野山・大峯山・熊野三山の寺社とそれを結ぶ参詣道である。スペインの聖地巡礼コンポステーラの道と似ている。
  私は熊野古道を歩いた訳ではない。入り口の藤白神社の横の道と、終着の那智大社に上る道を歩いたに過ぎない。しかし車では昔から紀伊の山々を随分走っている。そして拠点になる寺社や名所は大峯山を除いては幾度か訪れている。

  春の吉野は華やかだ。下の千本、中、上、奥と桜が駆け上る。修験道の本山、金峯山寺には山伏のほら貝が鳴り響く。天武天皇が挙兵した袖振り神社。義経が隠れていた吉水神社。そこは又後醍醐天皇の御所が置かれていた。そして豊大公が花見の宴を張った本陣もここに置かれた。そこから谷越えに見える如意輪寺は,楠木正行が辞世を残して出陣して行った所である。
  更に奥に分け入ると、人里はなれたところに西行庵がある。ここから大峯山を経由して熊野大社に至る道が、奥駆けと称する最も険しい修験道である。
  
  紀伊半島を縦断するメイン・ストリートは二本ある。東を走る一六九号線は吉野から尾鷲に至る道で、途中大台ケ原の麓を通る。大台は幾度か訪れた事がある。その紅葉の美しさは比類ない。残念な事に観光客と鹿に荒らされ、頂上は枯れ木の原になってしまった。
  西の一六八号線は五条から新宮に至る線で、山また山の中を走っている。近年トンネルがいくつか出来、道路も整備されて来たので走りやすくなった。初めて十津川に行った時には、トラックの離合に冷汗かいたものだ。
  さらに西に目をむけると、高野龍神スカイラインがある。文字通り高野山から竜神温泉に至る道で、その先は田辺に通じている。前二線が谷あいを走っているのと違い、尾根伝いの道ですこぶる眺望がいい。殊に途中の護摩壇山展望台からの三六O度の眺望は素晴らしい。

  先ごろバスツァーの広告で高野龍神をめぐるツァーが目に止まった。高野山はいく度か訪れているが、世界遺産登録の記念にお参りするかということで申し込んだ。バス・ツァーは楽だ。いっぱい飲んで寝ていれば目的地に着いてしまう。昔はどこまでもマイ・カーで出掛けたものだが。
  高野山の楽しみは、なんと言っても戦国の武将や徳川の諸大名の墓を巡ることだ。それぞれの墓がそれぞれの歴史を語ってくれる。信長の墓が最近発見されたと言うのも面白い。それにしてもあの時代よくも人力でこの山の奥まで、巨石を運んできたものと思う。
  奥の院には大師様が眠る。入滅された時のそのままのお姿で。そういえば暗い堂内に目を凝らすと、何となく人の座った形が見えるような気がする。
  高野龍神スカイラインは最近無料になったが、行き交う車も少なく、緑の眺望がゆっくり楽しめる。やがて下り坂に入り、竜神温泉に到着。有吉佐和子の「日高川」で有名になった頃は、結構秘湯として賑わったが今は寂れている。以前に泊まった下の御殿は建て替えられて風情がない。
  あの頃はまだ若かった。随分無茶をやったものだ。地図を見ていたら、果無山脈というのが目に入った。竜神から十津川に行く道だ。果無と言う名前が気に入った。深い渓谷沿いのがたがた道を四、五十分、行き交う車もなく心細い。突然立派な舗装道路。奈良県の標識が見える。高額納税者がいるからなと呟きながら正直ほっとした。翌日何とパンク。スペェアーを入れたらこれは減圧。冷や汗かいた。

  中央を走る一六八号線には見所が多い。五条から入ってすぐに賀名生の梅林がある。後醍醐天皇が吉野にいかれる前一週間、行宮所を設けたところ。今でもその址があり、皇居と言う看板が掛かっている。
  いくつかのトンネルをくぐり、橋を渡って小一時間走ると、日本一の谷瀬の吊橋に出る。高所恐怖症で知られる故高坂先生は、予てより阪神が優勝したら谷瀬を渡ると宣言していた。先生が生徒達に抱えられ、中吊りになって吊橋を渡る姿が新聞に出ていた。
  十津川温泉に近くの山の奥に玉置神社がある。徳川に時代に植えられた杉の巨木に囲まれて、質素な社殿がひっそりとたたずむ。いかにも神さびたと言う感じがする。折からの雨に訪れる人もなく、真に聖なる雰囲気を味わった。周囲の山々を眺めると、谷間から雲が湧き、これぞ熊野の山々、神の山々という気分になった。
  十津川村は山高く谷深い。昔はダムがなかったので、豪雨による大水害にたびたび見舞われた。明治の時代ついに村をあげて北海道に移住した。今ある札幌郊外の新十津川村がそれである。
  この辺り温泉が多い。十津川温泉、湯の峯温泉、渡瀬温泉、川湯温泉、いずれも源泉掛け流しの本物。川湯温泉は川のどこを掘っても湯が沸いているので、あちこちに堰を作ってお風呂を楽しんでいる。川幅が広いので正に千人風呂といえる。(ここでは仙人風呂と呼んでいる)

  熊野三山は古来より人々の信仰を集め、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど参詣人は絶え間ない。海岸沿いの道、山越えの道、熊野古道は都から遠い。幾多の困難を乗り越えやってくる。その終着熊野三山は思ったより開けている。
  那智大社は那智山の原始林の中腹に建つ。日本一の落差を誇る那智の滝があまりにも有名で、観光客のお目当ては専らそちらに行ってしまう。隣の青厳渡寺は西国札所の第一番。明治の神仏分離令で那智大社と分かれた。
  海に近い速玉大社は明治十六年花火が原因で焼失し、昭和二八年に建て直されたもの。朱塗りの社殿が色鮮やか。熊野本宮は現在より五百米ほど下流にあったが、明治二二年の大洪水でその殆んどが流失、一部が現在の地に遷座された。長い石段を上っていくと、がっしりした入母屋作りの社殿が四つ並んでいる。
  私の関心を引いたのは海岸近くにある小さな寺補陀落寺である。井上靖の小説にある。寺に功績があった者を補陀落浄土に送ろうと言うもの。ある時一人の僧が選ばれた。大変光栄な事である。人々はその僧に祝福を述べにやって来る。僧は補陀落なんかに行きたくないが、そんな事は口が裂けても言えない。ついにその日がやって来た。僧は小船の箱の中に寝かされ、外から釘を打たれ補陀落めがけて流された。中から叩けども叫べども。・・・

  世界遺産に登録されると、地元は観光客を期待する。しかし熊野古道は俗化されないところに意味がある。最近観光客が増え、苔が踏みづけになっていると新聞に出ていた。信仰の地、修行の地として何時までも大切に保存したいものだ。

                           ( 2004.09 )