閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
ブッシュ家とケネディ家
               ―― 越智道雄   

 

 
  一昨年、アイルランドに旅したときのこと、ゴールウエイと言う町の小公園にケネディの記念碑が建っていた。ケネディが故郷に錦を飾りこの町を訪れた時、記念に建てられたものである。そう言えばレーガンもプロテスタントではあるがアイルランド系とのこと。そのとき聞いた話だが、アイルランドにはこんな冗句があるという。「仕事がなくなったら、アメリカに行って、大統領でもやるか」。
  WASPのブッシュ家、アイリッシュのケネディ家、この本は両家を対比させて、出自の違いによる思考、行動の違いを述べている。筆者は明治大学教授で、日本ペンクラブ国際副委員長。
  アメリカの政治・経済・社会に亘るあらゆるインフラは、イギリス系アメリカ人、WASPによって築かれた。それが今では、ドイツ系とアイルランド系の後塵を拝し、人口でも三位におちてしまった。
  そもそもWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)という造語は1960年代に登場したものである。当時公民権運動が盛んになり、アフリカ系、ヒスパニック系のみならず、非WASP系白人の間にも民族意識が高まった。そして次第にWASP優位の社会は崩れていった。しかしそうは言っても、やはり今日でも猶WASPは隠然たる力を持っている。

  ブッシュ家は典型的なWASPである。アメリカにはイエール大学にスカール&ボーズという学生の秘密結社がある。そこの出身者はWASPの本流中の本流、社会に出ても固い絆で結ばれている。ブッシュ親子は二人ともそのメンバーである。
  ブッシュ親子は二代に亘る大統領就任の栄に浴している。そのような例は他に一例あるのみである。
  ブッシュ(息子)の祖父は東部エスタブリッシュメントに幅広い人脈を持っていた。特にトルーマン政権の商務長官ハリマン、国務長官アチスン、国防長官ラヴェットとは親交があった。
  ブッシュ家は鉄道貨車やトラックの部品を製造販売して財を得た。祖父の代で銀行家ウォーカーの娘と結婚し、その財を背景に勢力を伸ばした。当初はボストンに根拠を構えたが、その後石油を中心に発展を続ける南西部に着目、ここにも拠点を持った。

  一方ケネディ家の方もやはりボストンに拠点を置き、金融業で発展を遂げた。ケネディ大統領は四代目であるが、父がなかなかのやり手で、政治的基盤はボストンに置きながら、経済的基盤をニューヨークに移した。そして自らが果たせなかった夢、大統領職を息子に託した。然し何と言ってもブッシュとの違いは人脈不足であった。その上、WASPは陰に日なたに援け合うが、アイリッシュは角突き合わせる悪弊がある。
  ケネディの父はローズベルトの選挙に功績があり、駐英大使に任ぜられた。そこでエリザベス女王と知りあい、又次女を英国貴族に嫁がせ、WASPに一矢報いた。
  ケネディは組閣に当たって、ラヴェットの力を借りた。ケネディは政権引継ぎの時こう言っている。「人人人・・・私はまるで人を知らない。どうやって1,200人の官職を埋めたらいいのか」ケネディはアチスンの私宅を訪ね、ニクソンの別荘も訪れている。ケネディは東部エスタブリッシュメントを慰撫する為に随分気を使った。

  ブッシュ(父)はレーガンの下で副大統領を務めていた。レーガンに健康上の問題があり、ブッシュは二人大統領とも言われるほどの力を持った。大統領に就任し、組閣に当たっては誰に遠慮することなく、自らの考えに従って進めていった。

  昨年13日(サーティー・デイズ)という映画を観た。キューバ危機を乗り切る13日間のホワイトハウスの緊迫した有様を描いたものだ。ケネディの15人のスタッフによる会議は、終始ロバート・ケネディ(弟)とケン・オドネル(ケネディの選挙参謀)がリーダーシップを取っていた。空爆派と封鎖派が激しく対立した。結局ロバートの合衆国は先制攻撃をかけない国だという主張が通り、アチスンは敗れた。ケネディはこの間ラヴェットにも内々相談して、その意見を取り入れている。ここにもケネディの気遣いが見られる。

  それから29年後、同じ大統領執務室でブッシュ(父)が幕僚とともにテレビで湾岸戦争を観戦していた。ソ連は既にゴルバチョフの末期、アメリカの一極支配が始まろうとしていた。WASP出身のブッシュ(父)は国内外、誰はばかることなく思いのまま作戦を遂行する事が出来た。
  更に10年の歳月が流れた。9・11テロが起こった。ブッシュ(息子)は復讐の念に燃え、立ち上がった。ウォー・キャビネットはパウエル長官を除いては大部分タカ派。国連無視に同調した。外郭にはユダヤ系のネオコンの応援団が。

  アメリカは多民族・多人種・多宗教・・・の国である。1960年代、公民権運動が盛り上がり、ジョンソンの時代にかなりの改革が見られた。この多様性を纏めていくのは容易な事ではないが、アメリカはむしろその多様性をパワーの源泉と考えている。いつぞや、ある財界セミナーに首相が出席して、日本の単一民族がいかに優れているかを述べた。これがアメリカでは大問題になった事がある。
  このような多様性の中の平等社会にあって、出自によって自らのアイデンティティを認め合うと言う事は我々にはぴんと来ない。わが国にも名家名門の類はある。然しそれはパーソナル、ローカルな話で、WASPやアイリッシュの話とは違う。
  最近マイ・ビッグ・ファット・ウエディングという映画を観た。ギリシャ出身の一族が、自らのアイデンティティをいかに大切にしているかを喜劇風に描いたもので面白かった。

  アイルランドに旅したときに、アイルランドがイングランドの圧政にいかに苦しめられたかと聞かされた。ジャガイモの大凶作で、多くの移民がアメリカに渡った。彼等はその苦しみをバネに、WASPに追いつけ追い越せと頑張ってきた。その成功の象徴がケネディである。ケネディはアイリッシュのみならずアメリカ国民の英雄になった。しかしWASPの思いは如何ばかりであったろう。アイリッシュニ24年間(ケネディ三兄弟x8年)アメリカの大統領をやられてはたまらない。それがケネディの悲劇につながったと言われている。

                        ( 2003.08 )