閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 カルロス・ゴーン
経営を語る
           ―― カルロス・ゴーン



  

  私はこの本を読んで長嘆息を禁じ得なかった。これは本物である。確かにスローンの「GMとともに」やウエルチの「GEとともに」を読むと、それぞれ中興の祖と呼ばれるに相応しい経営者であると思う。しかし彼等の場合、それぞれに問題は抱えていたにしろ、自国のトップ企業の経営革新に成功したのであって、ゴーンのように他国の倒産寸前の会社の再建を短期に成し遂げたのとは訳が違う。
  スローンは小さな自動車会社の集合体であったGMを、巨大な統合されたGMに作り上げ、今日にいたるも世界一の地位を揺るぎないものとした。ウエルチは重電・家電の電機会社から、時代の変化を読み取り、IT化、ソフト化の波に乗り、見事リストラクチュァリングを果たし、GEを高収益会社に作り上げた。
  カルロス・ゴーンは自力で再建不可能な日産にルノーから乗り込み、僅か3年で高収益会社に作り変えてしまった。
  少し前、本屋の店頭にウェルチの本がうず高く積まれていた。それがゴーンに変わった。数えて見ると10種類ほどある。中には「日産を駄目にするカルロス・ゴーン」という本まである。この本はゴーン自身が記者に語ったものを編集したもので、日産再建に到る経緯がよく分かる。

  カルロス・ゴーンはレバノン人である。祖父の代にブラジルに移民している。フランスはレバノンの宗主国、ゴーンはパリのグラン・ゼコールに学んだ。78年に同校を卒業、タイヤ会社の名門ミシュランに入社した。81年には早くも工場長に抜擢された。ここでゴーンは指導者として大切な事を学んだ。特に人間関係の重要性を。
  そして2年ほどたった時に、社主ミシュランに呼ばれ、経営不振に陥っている系列のクレベール社に派遣される事になった。そこで問題点を徹底的に調査分析し、対策案を提題、大部分が採用された。
  ゴーンは引き続き研究開発センターの責任者に命ぜられ、ここで1年勤務の後、いよいよ問題山積のブラジル・ミシュランのCOO(最高経営執行者)に任ぜられ、生まれ故郷のブラジルに赴いた。入社して僅か7年の事であった。社主の絶大な信頼があったればこそであろう。
  当時ブラジルはハイパー・インフレの真っ只中、財務体質と労使関係の改善は焦眉の急であった。ゴーンの才能は遺憾なく発揮された。ブラジル・ミシュランは2年で黒字、4年でグループNo・1の業績を挙げた。
  そしてゴーンは89年には北米ミシュランのCEO(最高経営責任者)に任ぜられた。翌90年にはグッドリッチとの統合を果たし、世界最大の市場北米に確固たる地歩を築いた。ゴーンが学校を出てミシュランに入社して僅か12年の事である。
  ゴーンはこの間社主ミシュランの哲学を充分学んだ。部下に対する配慮、製品や品質の重要性、長期ヴィジョン、技術革新・・・・
  96年、ゴーンは42歳の若さでルノーに副社長として招かれた。ルノーは元国営企業、今でも国が大株主、その為官僚体質が抜け切れず、世界の自動車業界ではビハインドな地位に甘んじている。
  ゴーンは購買・研究・開発・エンジニァリング・製造を担当した。ゴーンは早速1台1万フラン、トータルで200億フランのコスト削減計画を立て、周囲から失笑を買ってしまった。だが計画は実現された。ゴーンのコスト・カッターの渾名はこの頃ついた。
  ゴーンはルノーに幾つかの組織的な問題があると感じた。一つはクロス・ファンクションが働かない。つまり部門間の壁が厚く協業できない。二つには士気が低い。三つ目には中央集権的である。
  
  グロバリゼーションの時代、自動車産業の提携合併が急速に進んできた。ボルボとの提携に失敗したルノーは狙いを日産に定めていた。一方日産は最早自力では再建不可能な所まで追い詰められていた。1999年3月両者の提携は成立した。ルノーは50億ドル出資して日産の株式の36.8%を取得した。
  一体どんな人物がやって来るのであろうか。果たしてルノーに日産を救う力はあるのだろうか。フォードと提携したマツダは一向に上手く言ってないようだが。
  カルロス・ゴーン、勿論我々は名前も聞いた事が無い。新聞には「コスト・カッター」と紹介されている。我々は思った。首切り・工場閉鎖・下請けいじめ・資産売却・・・・要は縮小均衡、これでは延命はするが将来に向けての発展はない。グローバルな大競争時代には到底生き残れない。

  ゴーンはルノーから派遣されてきた人を集めてこういった。「君達は日産が自分の道を見出す為にここにいるのだ。日産を救うのは日産である」。ゴーンは自らの足で現場に赴き、日産の病根を調べた。第一は収益志向の低さ、第二はユーザーを考慮に入れない発想、第三は危機感の欠如、第四はセクショナリズムの弊害、最後はヴィジョンが無い。真に耳の痛い話ばかりではないか。これは日産のみならず、業績不振の会社すべてに当てはまる病根である。
  ゴーンはミシュランとルノーの経験から、セクショナリズム、つまりクロス・ファンクションが働かないのが最大の問題と思っている。そこで日産に於いてもまず部門をまたがる問題解決チームを九つ編成した。そして日産のリバイバル・プランを作成、99年10月に内外に発表した。2000年に黒字、2002年に営業利益4.5%、負債半分という此れまでの実績からは到底考えられないような目標を掲げた。
  無論リストラも伴う。従業員14%減、5工場閉鎖、系列の解体、株式の売却・・・・。しかしここからが違う、商品ラインの刷新、特にデザインの一新、技術開発の強化、財務体質の改善、天下りの直営店の廃止・・・・。
  ゴーンは日産のワーカーの勤勉ぶり、技術者のレベルの高さには感心していた。その宝を失わないように、よき企業文化を育て、従業員の帰属意識を高める事に意を注いだ。
  日産は不死鳥の如く甦った。ゴーンのコミットした目標は達成された。ゴーンは日経ビジネスの理想のリーダーの一位に、又企業改革経営者表彰でもトップに輝いた。人々は此れを奇跡と呼ぶかも知れない。しかしゴーンは言う。「日産を救うものは日産である」。日産にはそれだけのポテンシャリティがあったのだ。経営の力とは偉大なものだ。それにしてもゴーンのこの困難な仕事をやり遂げる意志の強さはすばらしいものがある。
  日本株式会社も日産と同様倒産寸前である。日本を救うものは日本しかない。衰えたりと言え日本には世界でも優れたポテンシャリティがある。生かすも殺すもリーダーの才による。ゴーンよ出でよ。

                       ( 2003・12 )