閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
フルトヴェングラーといえば、指揮者の神様のような人で、我々若い頃にはSPレコードで聴いたものだが、「振ると面食らう」とか言われ、ただ恐ろしい人と言う印象が強かった。 一方カラヤンの方は、長らくクラシック音楽界に世俗的・実質的意味で君臨し、音楽以外のところで権勢を振るった人として知られている。 新聞の書評を見ていたら、近頃こんな面白い本にお目にかかったことはないと、中川右介の「カラヤンとフルトヴェングラー」という本が紹介されていたので早速読んでみた。書評に違わず面白かった。というより意外な事実を知らされて驚いた。本の帯に「最も美しい音楽を巡る、最も醜い権力と野望の物語」。と書かれてあった。 我々は優れた芸術家は、世俗を超越した存在かと思いがちであるが、どうもそうばかりではないらしい。彼もまた人なりか。 世代の違いで、フルトヴェングラーのことは殆ど知らない。カラヤンの事については多少の接点がある。もう何時のことか忘れてしまったが、フェスティバル・ホールでカラヤンを聴いた。舞台の袖から現れたカラヤンの姿が印象的であった。背筋を伸ばし、膝を曲げないで速歩で入場してきた。正にナチスのスタイルそのものであった。 それからずっと後のことになるが、テレビでカラヤンの日常生活を紹介していた。スポーツカーを飛ばすカラヤン。豪邸で愛妻と過ごす日々。それにまして印象的であったのは、自家用機を操るカラヤンが管制塔に向って「私はカラヤン」と連絡すると、直ちに着陸許可が下りることであった。 いつぞやザルツブルグを旅したときのこと、ガイドが、あれがカラヤンの生家ですと案内した。それは街中にあるごく普通の家であった。そういえばモーツアルトの家も近くにあり、こちらは見学することができた。 フルトヴェングラーはヨーロッパで最も権威のあるベルリン・フィルハーモニーの三代目の主席指揮者として君臨していた。四代目はカラヤンであるが、その引継ぎはスムースには行かなかった。それはフルトヴェングラーがカラヤンに嫉妬の炎を燃やし、忌避、妨害したからである。それともう一つ、両者ともナチスとの関係が色々影響してくる。
ドイツではクラシック音楽は国民の間では重要な地位を占めている。その頂点に立つベルリン・フィルハーモニーの主席指揮者ともなれば神様のような存在である。いかなナチスといえどもままならない。それでも事あるごとに干渉してくる。そして戦後は連合軍による非ナチ化審理があって、音楽の活動にも何かと影響があった。 フルトヴェングラーはゲッペルスの下で音楽院の副院長を勤めていたが、ユダヤ人であり反ナチのヒンデミットを擁護した為、ヒットラーの忌避に遭いその職を解かれた。同時にベルリンの指揮者、歌劇場の監督の職も免ぜられてしまった。 それでも国民的英雄、ナチスは国威発揚にフルトヴェングラーをいろいろと利用しようとした。フルトヴェングラーは何かと理由をつけ出演を断ってきた。 カラヤンはナチスに入党した。しかしヒットラーが臨席したオペラで、主演者が失敗したのをヒットラーはカラヤンのせいと思い、以後覚えが悪くなってしまった。 しかし戦後非ナチ審理では両者ともマイナス点がプラスに働き程なく自由な音楽活動が許された。だがその後もアメリカではトスカニーニを頂点としたユダヤ系アーチストが、フルトヴェングラーがベルリンを率いてのアメリカでの演奏会に反対し、アデナウアー首相の発起した親善コンサートは実現しなかった。 フルトヴェングラーとカラヤンは二十歳余離れている。フルトヴェングラーがベルリンで権勢を振るっていた頃、カラヤンはアーヘンの片田舎でデビューした。若きカラヤンは地元ファンから熱狂的支持を得た。その後地方の都市を巡り随所で大歓迎を受けた。 やがてカラヤンはベルリンに上った。カラヤンの評判を聞いたフルトヴェングラーは嫉妬の炎を燃やし、策略をめぐらしカラヤンの出演をことごとく妨害した。カラヤンは後にベルリン・フィルの首席指揮者につくまでの十六年間に僅か十回しかベルリン・フィルの指揮台にのぼらなかった。 又こんな話もある。ザウツブルグ音楽祭で、主催者は地元で人気の高いカラヤンを、いくつかの演目に出演を予定していた。これを知ったフルトヴェングラーは激怒してねじ込んだ。「今後カラヤンが出演するのなら、私は一切この音楽祭から手を引く」。帝王に手を引かれてはたまらない。次回からカラヤンはお断りと言うことになる。この方式で次から次へとカラヤンを追い出していった。その執念たるやすさましいものがある。この本には次から次へとカラヤンの追放劇の話が出てくる。いささか異常の感がするのは私ばかりではなかろう。 片やカラヤンのほうはどうであったろう。少なくとも表向きにはこの偉大なマエストロを尊敬し、正面から争うことはなく、ひたすら力を蓄え、来るべき日を待っていた。 そんなフルトヴェングラーが戦後ベルリン・フィルに復帰を要請されながらなかなか首を縦に振らなかった。その間をつないだのは若きチェリビダッケであった。カラヤン憎しのフルトヴェングラーは後継者をこの若きチェリビダッケにと考えていた。世の中上手く行かない、チェリビダッケは楽団員の人気悪く、猛反対にあって実現しなかった。 フルトヴェングラーは五十七年、二十年ぶりにベルリンに復帰した。しかしその二年後不帰の人となってしまった。こうなるとカラヤンの一人天下、向うところ敵なし。カラヤンは商才に長けている。自分を安く売らない。ベルリン・フィルハーモニーの終身首席指揮者の地位を得た。ザルツブルグは元々出身地、その音楽祭はカラヤンそのものの様相を呈した。ウイーン国立歌劇場もバイロイトもカラヤンの支配するところとなった。新帝王の誕生である。そしてドイツ国民の悲願であったアメリカ公演も果たした。 私がこの本を読んで感心したのはドイツ国民が如何にクラシック音楽を愛しているかである。あの恐ろしいヒットラー、ゲッペルス、ゲーリングでさえもフルトヴェングラーを押さえ切れない。国民の人気、支持を考えると迂闊に手を出せない。計算しているのか、無神経なのか分からないが、フルトヴェングラーはナチスと堂堂対等に渡り合っている。我々戦時中のことを振り返ると到底考えられない。 それにしてもフルトヴェングラーの嫉妬は如何がなものあろうか。確かに芸術家の中には自惚れと嫉妬の強い人がいる。しかし二十歳以上離れた若者に嫉妬して、その出世の道をいちいち妨げるとは。後進を育てたと言えば、後世に更に偉大な名を遺すことができたであろうに。 我が家にカラヤンが指揮するベルリン・フィルハーモニーのベートーベンの交響曲全曲のレーザー・ディスクがある。カラヤンは姿がいい。なるほど音楽は聴くだけではなく観るものでもあると思う。 ( 2007.08 )
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