閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 私はヒットラーの秘書だった
        ――― トラウデル・ユンゲ



 年末にNHKで「映像に見る二十世紀」という番組が放映されていた。戦いに明け暮れた二十世紀、貴重な映像が歴史の生き証人として映し出されていた。その中で一方の立役者はヒットラーである。壇上で、バルコニーから獅子吼する姿は、我々にとって馴染み深いものである。
 しかし我々はヒットラーの実像に着いては殆んど知らない。特にその日常生活については知る由もない。そのヒットラーに三年間秘書として仕えたトラウデル・ユングという人が、「私はヒットラーの秘書だった」という手記を著した。面白そうなので早速読んでみた。所謂キワ物ではなく、三年間ヒットラーの近くに仕え、見聞きした事をそのまま伝えていてなかなか面白かった。勿論速記とタイプの秘書なので、軍事や政治に及ぶ話は殆んど出てこない。
 
ヒットラーはドイツとの国境に近いオーストリアの山村で生まれ、若い頃画家をこころざしウイーンに出てきた。しかし美術学校への入学を果せず、ドイツに移住した。もしヒットラーが画家になっていたら、歴史は随分変わっていただろう。
 ヒットラーは第一次大戦時、志願兵として軍隊に入ったが、上等兵とまりであった。第一次大戦後、ドイツ労働党に入党するや、めきめき頭角をあらわし党首となった。ヒットラーの武器は雄弁であった。幼少の頃ひどい吃音症に悩んだが、努力の末これを克服、逆に雄弁を武器とするようになった。加えて文章力に優れ、「我が闘争」で圧倒的な人気を博し、独裁者の道を歩む事となった。
 
 著者トラウデル・ユングはミュンヘン近郊に生まれた。年頃の娘にありがちな、大都会ベルリンに憧れていた。偶々友人の伝で、ヒットラーが秘書を求めている事を知り、応募したら合格してしまった。ナチスとはどんな組織か、ヒットラーはどんな人物かを全く知らずに。
  ユンゲは東プロイセンのラステンブルグにある総統大本営に勤める事になった。仕事は筆記とタイプであった。初仕事はさすが緊張し、ベテランもミスを冒してしまった。しかし総統は思いやりがあり、優しい言葉で励ましてくれた。
  総統は酒・タバコを嗜まず、お茶もりんごの皮を煎じた物を飲んでいた。総統の胃弱は極度のストレスによるものではないかとユンゲは見ていた。
  ある時ミュンヘン近郊の山荘にそろって出かけた。そこにはエーファ・ブラウンという女主人公がいて、山荘の管理を取り仕切っていた。この山荘にそうそうたる顔ぶれがやって来た。ヒムラー、リッペントロップ、ゲッペルス、ゲーリングハウス・・・・。いずれもよく聞く名である。
  このような客人を交え、食事やティータイムが持たれた。ユンゲも同席した。話題はごく日常的なもので、エーファ・ブラウンが座を盛り上げるのに気を遣っていた。総統は聞き役に回っていたが、しばしば瞑想に耽っていた。(疲れて居眠りをしていたのではないか)
  再び大本営に戻り、演説原稿をタイプする日々となった。総統は秘書と食事をともにした。話題は秘書向けの一般的なものであったが、その中で時折自分が天才であるという妄想を持っていることを思わせる発言があった。

  ヒットラー暗殺未遂事件が起こった。題名は忘れたが、この事件を題材にした映画を観た事がある。作戦会議に出席した将校が、時限爆弾の入った鞄を総統の近くに置き、さりげなく出て行く。爆弾は炸裂し、暗殺は成功したかに見えた。しかし総統は奇跡的にも軽症を負っただけで助かった。犯人はゲート付近で捕らわれた。この本に書かれている話も大体同じである。
  ヒットラーは自らの運の強さに自信を持ち勝利の妄想へとつながっていった。しかし犯人探しが始まると、意外にも抵抗運動が軍の中で広がっていた。ヒットラーはひどく参った様子で、これまでにも無く不健康な生活を送るようになった。

  東部戦線異常あり。ソ連軍は東プロイセンに迫ってきた。ついに大本営はベルリンに移る事になった。ベルリンは連日の爆撃で荒廃していた。西部戦線も連合軍がおくれずと迫ってきた。
  一九四五年に入り、いよいよ敗色濃厚となった。それでもユンゲ達はヒットラーを信頼し、食卓では陽気に振舞っていた。
  将軍達は総統に向かって南ドイツに移るように説得したが、総統は断固これを拒否、ベルリン決戦を覚悟していた。最後の作戦会議も終わり、ヒットラーは女性達を集め、南ドイツ行きの飛行機を用意したので、直ちに避難するように申し渡した。エーファ・ブラウンはヒットラーと生死をともにせんとベルリンに残ると言った。その時ヒットラーの目が輝き始め、彼女に口付けをした。ユンゲは何となく残る事になった。
  ヒットラーは将校達を集めて「何もかも終わりです。私はこのベルリンに残り、ピストル自殺します。全員自由です」。と言った。大方の将校は去っていった。残った女達には苦しまずに死ねる毒薬が渡された。
  ユンゲはヒットラーから「余の政治的遺言」を筆記するよう命ぜられた。ユンゲの期待に反しそこには皆の知らない新しい事は無かった。しかし続いての個人的遺言では驚かされた。エーファ・ブラウンと結婚すると述べられていたのだ。そしてささやかな披露宴が用意された。
  程なく最後の時がやって来た。扉の中から銃声が聞こえた。ヒットラーはピストルで、エーファ・ブラウンは毒薬でその命を絶った。その死体は敵側に渡らない様に焼却された。

  よくあの人はヒットラーのようだと言うと、強烈な独裁者をイメージする。そして独裁者は大抵私生活においても我侭で傍若無人に振舞う人が多い。しかしこの書を読む限り、ヒットラーはなかなか気遣いのある人で、特に女性には優しい。ユンゲもヒットラーに対しごく普通の上司のように接していた。自殺する直前には、ユンゲを呼んで別れの挨拶までしている。エーファ・ブラウンがヒットラーの健康を気遣って色々口をはさむが、おとなしく従っている。
  ナポレオンが軍人出身の政治家であるのに対し、ヒットラーは政治家出身の軍人であると言われている。その為ヒットラーは直接的な軍事戦略には弱かったようだが、独裁者にありがちな自信過剰のため、参謀の提言を聞かず、参謀達もついにはヒットラーの神がかりに唯々諾々と従ってしまっていたようである。
  それにしても敗戦は辛くて悲しいものである。刻々に集まる敗報。右往左往する兵士、逃亡する将校、裏切る将軍。次第に至近に炸裂する爆弾や砲弾。・・・ユンゲの記述はその状況をリアルに伝えている。

  ユンゲはこの後ソ連の収容所に入れられたりして苦労を重ねたが、何とかイギリス地区に脱出、故郷ミュンヘンに帰りついた。その後非ナチ委員会の査問を受けたが無罪放免となった。

                        ( 2004,06 )