閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 イラクの中心で、
バカとさけぶ
     ――橋田信介



  戦場カメラマン橋田信介さんと甥の小川功太郎さんが、イラクでテロの襲撃に遭い亡くなった。その葬儀は二人が活動の根拠にしていたバンコックで営まれた。
  橋田さんは少し前に「イラクの中心で、バカとさけぶ」と言う本を著した。この本を手にした時、まさか橋田さんが被災するとは思わなかった。橋田さんはプロだ。プロの戦場カメラマンだ。亡くなった時も自己責任論は出なかった。奥様もかねて覚悟は出来ていたようであった。戦場カメラマンは世界各地で命を張って紛争を取り続けている。
  彼等は大会社に所属していない。フリーである。身分も命も保証されていない。少し前に野嶋剛さんの「イラク戦争従軍記」に就いて書いたことがある。野嶋さんは朝日の記者で、アメリカ第一海兵団に配属になり、バグダット侵攻作戦に従軍した。しかしナーシリア攻防戦の後、本社より帰還命令が出て、バグダット迄百キロの地点で涙を飲んで引き返した。
  日本の企業は自己責任なんて言っていられない。社命で出せば勿論会社の責任になる。そこで危険なところではフリーのカメラマンと契約して、お金で映像を買う。これは何も日本のメディアだけではない。外国の方がフリーの戦場カメラマンは多い。以前にロバート・キャパ展を観に行った事がある。ピュリツァー賞受賞者三四名のうち、日本人は僅か一人しかいなかった。そしてこの賞が設けられてから三百名のジャーナリストが命を失っている。

  この本で、本文に入る前に、橋田さんは三人の仲間と座談している。いずれも世界の激戦地を渡り歩いた猛者ぞろいである。彼等は爆弾を落とす側から見るのではなく、命を張って落とされる側から見るのだといっている。彼等は命を賭けて何故戦場に行くのかと問われると、一番尊い人命のやり取りをする究極の修羅場を見てみたいからと言う。戦場で逃げ回って、帰国するとテレビなんかでチヤホヤされる人、する人を軽蔑する。

  それにしてもフリーは辛い。機械は勿論自前、旅費取材費も全て自分持ちである。諸々の手続きも全て自分がやれねばならぬ。その成果、ビデオやカメラで撮影した物が売れなければ持ち出しになる。如何に良いものが撮れても、クライアントにタイミングよく送れなければ何にもならない。戦場はその送信方法が難しい。更に困難なのは入出国の手続きである。橋田さんはビザもパスポートも偽物で出入りしている。ここにも金が動く。そのやり取りには高度な技術がいる。

  橋田さんは二十代後半、ベトナムのハノイでニュースカメラマンとして活躍していた。今から一六年前日本を脱出してバンコックに移り、そこを本拠にして紛争地域を飛び回っていた。
  橋田さんは面白い人だ。「短い人生だから立派に有意義に過ごそう」と言う哲学を「短い人生だから、いいかげんにノーテンキに過ごそう」に切り換え、日本を脱出してバンコックにやって来た。そこで鈴木さんという人と一緒に仕事をしていた。橋田さんは毎晩麻雀をしてぐうたらに過ごしていたら、奥さんが愛想尽かして日本に帰ってしまった。

  イラクにアメリカ軍が侵攻する事になった。橋田さんは鈴木さんとバグダットに行って、戦場を撮って来ようと言うことになった。早速タイのイラク大使館に行きビザを取ろうとした。許可は下りない。ヨルダンはビザなしOK、シリアはビザが取れた。結局シリアからイラクの北部のクルド地区に非合法でもぐりこもうと言う算段になった。アラブは何処に行ってもアンダー・テーブルそれも人の弱みに付け込んで法外なもの。最初は戸惑ったが次第にこつを覚えた。
  シリアのダマスカスまではなんとか着いたが、国境の町までの国内便が取れず、白タクを雇って砂漠を走る。偽ビザで何とか国境を突破、途中一泊してバグダットにたどり着く。新市街のホテルに泊まる。
  夜は早速空襲。湾岸戦争に比べて反撃少ない。翌日早速市内に出る。日テレに連絡がついたので、早速プレスセンターから二十分昨夜のビデオを送る。ようやくプレスカードを入手、自由に取材できる事になった。日本人のフリーのカメラマン三名と逢う。大手メディアは開戦前バグダットから逃亡してしまった。TBSと商談成立。先の日テレと合わせて百万円、取材費とチヤラ。
  イラク情報局にパスポートを没収され、国外退去を命ぜられる。シリアのダマスカスに退く。イラクの大使館で義勇軍のビザを取り再びバグダットへ。
  市街戦が始まる。誰が最初に米軍を撮るか。橋の上で米軍の装甲車と戦車に遭遇。照準を合わされる。戦場の真っ只中、危険だ、安全だ、敵か味方か言っておられない。ままよとばかり戦車を追い抜いてホテルに帰り、映像を日本に送る。
  やがて米軍が広場に立っているフセインの銅像を倒した。その映像は世界中に送られアメリカの勝利宣言となった。バグダットは落ち、日本の大手メディアが続々やって来た。本当は崩壊直後が一番危ないのに。
  ここで橋田さんは自らの哲学を述べている。戦場記者は戦争を語ってはいけない。場即ち「戦場」,況即ち「戦況」は現地に行ってリアルに語らねばならぬ。争即ち「戦争」は政治の世界であり、戦場記者の係わらない分野である。自衛隊をイラクに派遣すかどうか、国会で議論が沸騰した。サマワが安全かどうかは枝葉末節な事、政治の世界で論ずべきは戦争の大義である。
  橋田さんはベトナム以来、世界各地を危険を冒して転戦してきた。それは橋田さんの哲学、戦場記者の役割認識に基づいている。徹底した現地主義、大手メディアの及ぶところではない。
  橋田さんは仲間から一目置かれていた。不死身な人といわれてきた。危険を避ける本能が備わっていると思われていた。その橋田さんもついに銃弾に倒れた。そこには自己責任論は出てこなかった。橋田さんの生き方からすれば当然の事であろう。
 
                         ( 2004.07 )