閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
もうかれこれ五十年近く前のこと、会社に入って間もない頃、京都は岡崎でゴッホ展が開かれた。昔のことで殆ど覚えていないが、偉大な画家の生の絵にじかに接し感銘を覚えた記憶がある。それから三十年、万博跡にできた国立国際美術館でゴッホ展が催され早速出かけた。其の時のカタログを見ると出品数も多く、なかなか充実した展覧会であった。三年程前兵庫県立美術館でゴッホ展が開かれた。この展覧会はゴッホの絵の出展は少なく、ゴッホと弟テオとの関係が示される企画であった。 国立国際美術館が中ノ島に移り、中国至宝展、ガレ展についでゴッホ展を開くことになった。今回のゴッホの作品は油彩では三十点とあまり多くないが、中々の名品がそろっていた。「種をまく人」「芸術家としての自画像」「黄色い家」「糸杉の見える道」そして目玉はなんと言っても「夜のカフェテラス」。さらにゴッホに関する資料やゴッホに影響を与えた印象派の絵も展示されていた。 ゴッホはわが国では人気が高い。以前「ひまわり」が四十数億円で住友生命が落札し話題を呼んだことがあった。ゴッホ展はいつでも満員になる。今回も頭越しの鑑賞になったが。 今から六年前、ニースからボルドーを経てパリに至るツアーに参加したことがある。その中でゴッホの足跡をかなり辿ることが出来た。ゴッホは画家になってから舞台を各地に移している。アントワープ、パリ、アルル、サン・レミ、オーヴェール。しかしその円熟期はなんと言ってもアルルの時代であろう。 ニースでシャガールの美術館を見学、エクス・アン・プロヴァンスではセザンヌが愛したビクトアールの山を眺め、いよいよゴッホの聖地アルルに到着した。街のあちこちにゴッホの絵のレプリカが立っている。ゴッホが自ら招いたゴーギャンと不仲になり、耳きり事件を起こし入院した市民病院。そこでゴッホは三十点の絵を描いている。中庭に面しレプリカが数点置かれている。 市内をめぐりホテルに近づいたとき黄色い壁のカフェテラスの横を通った。ガイドがこれが有名な「夜のカフェテラス」の舞台になったところですと興奮して叫んだ。ゴッホは星空に痛く感銘し、夜にもかかわらず外にキャンバスを持ち出し、鉢巻にローソクをはさんで筆をとった。ガイドが今晩ここで食事をしたい人は私が案内しますと言うので早速それに応じた。夜空に星が輝きそのすばらしい景色に、ゴッホの気持ちも分かるような気がした。 ゴッホはアルル滞在二年の間に三百点の絵を描いている。創作意欲の絶頂期にあったのだろう。その代表作の一つのアルルの跳ね橋を観に行った。第二次世界大戦での折、この橋は破壊され、現存するのはその後建てられたものだ。橋の色がこげ茶でゴッホのあの明るい絵とはだいぶ感じが違っていた。 ゴッホが精神を病んで入院していたサン・レミの精神病院は横を通過しただけであったが、ここでもゴッホは制作し続け、麦畑とか糸杉とか美しい自然をモチーフにして名作を残している。 ゴッホはしばらくパリ滞在後、医者のすすめもあって郊外のオーヴェールに居を移した。ゴッホが住んでいた家を訪ねる。僅か三畳ほどの部屋に小さなベッドと洗面器が置かれているだけ。絵は全て外で描いた。八十点ほど残している。 ゴッホの絵のモチーフになっている村のはずれの小さな教会に立ち寄る。外に出ると小雨が降ってきた。ゴッホの墓に急ぐ。終生ゴッホを支えてきた弟のテオと並んで静かに眠っている。 近くの丘に上がる。一面の麦畑。そこにゴッホの遺作となった「荒れもようの空に烏のむれ飛ぶ麦畑」のレプリカが立っている。折から雲が低く垂れ込め雨足がひどくなってきた。烏こそいないがゴッホの絵の雰囲気は十分伺えた。 左手に見える森の中でゴッホは拳銃自殺を図り二日後に他界した。弟テオも翌年兄の後を追っている。テオは兄思いであった。テオなくして画家ゴッホはなかったであろう。 バスがパリに近づくと大渋滞に巻き込まれた。なんでもストで地下鉄もバスも動かないとのこと。翌二日間は自由行動の日だ。しかしルーブルもオルセーも休館。そこでジヴェルニーのモネの庭見学のオプショナル・ツアーに切り替えた。 パリの近郊ジヴェルニーにモネの屋敷がある。一面花壇に覆われている庭と睡蓮の池を回遊するようになっている庭がある。モネは晩年好んで睡蓮の絵を描いた。パリのオランジェリー美術館には睡蓮の絵がたくさんある。 画家の生涯はさまざまだ。モネは特に裕福な家庭に生まれたわけではないが、世の中の変化を捉え、印象主義の元祖と言われるようになった。多くの仲間を集め、出展自由の展覧会を開いた。そして晩年はジヴェルニーで睡蓮を描きながら静かな余生を送った。 ゴッホは絵を描き始めてから僅か十年でその生涯を終えている。その創作意欲は大変なものであった。しかしバブルで五十億円近くもした絵も、生涯殆ど売れなかった。弟のテオが親戚に頼んでやっと買ってもらった程度。正式な売買で売れたのはたったの一点だけであった。 後期印象派といわれるセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホのような人は当時次第に形成されてきた社会秩序の外側で、世俗を嫌い芸術家として高い価値を求めてきた。セザンヌは時にパリに出て画家仲間と交遊したが、サロン的風土を嫌い、すぐ故郷のエクス・アン・プロバンスに戻り、セント・ビクトアールの山を眺めて暮らした。ゴーギャンは遥か海の彼方タヒチで最後の生涯を送った。 ゴッホは当初画商として就職したが気にそまず、美術館めぐりと読書に時間を割いていた。その後語学の教師や伝道師をしたりしたが長続きしなかった。ゴッホは画家を志した頃、テオ宛にこんな書簡を送っている。 「僕の苦悶は唯一つ、-―-どうしたら自分が何か善いことのできる人間になれるのか、何らかの目的に貢献する人に、何かの役に立つ人になれないものだろうか、どうしたら一定の問題をもっと長い間、深く極めることが出来るようになるか、―-このことなのだよ、絶えず僕を苦しめているのは」 ゴッホの放浪の旅は続く。テオの仕送りを頼りに、絵を描いていたのは僅か十年。しかしゴッホは後世に大きな遺産を残した。ゴッホの苦悶は満たされたのだ。 今改めて夜のカフェテラスの絵の前に立つ。夜空に輝く星。澄んだ空。黄色い壁のカフェテラス。そこにくつろぐ人々。アルルに旅したときのことが昨日のように懐かしく思い出される。ゴッホの絵はいつもわれわれに勇気と感動を与えてくれる。 ( 2005・06 ) |