閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
       ドラッカー
二十世紀を生きて         
         ――ピーター・ドラッカー     

 
 今年の二月、日経紙の私の履歴書にドラッカーが登場した。このマネジメントの大家、よわい既に九十六歳、なお現役として活躍している。ドラッカーはアメリカのマネジメント、ひいてはわが国のマネジメント、更には世界のマネジメントに多大の影響を与えた人である。わが国でもその信奉者は多く、この私の履歴書は読者に多大の感銘を与えたようである。この程それが一冊の本にまとめられた。 
 この本の帯にドラッカーの言葉が載っている。「分権化、目標管理、知識労働者、民営化、皆私の造語で、これからも使われ続けるかもしれない」。いまや我々が日常のマネジメントの中で当たり前のように使っているこれらの言葉こそ、ドラッカーが言い出し広めたものである。そしてそれが単なる言葉としてではなく、経営思想として世の中に浸透したのである。
  私が学生だった頃、世の中には経営学部はなかった。経済学部が主流で、経営学は商学部の中で会計を中心としてかなり実務的なものを教えていた。それが今や経営学部は無論のこと、経営者の卵を養成するビジネス・スクールも世界の各国に出来ている。これもドラッカーの影響が大きいものと思える。
  ドラッカーは大変な親日家で、浮世絵をこよなく愛し、大学で講義するほどその薀蓄も深い。そんなこともあって、わが国にたびたび訪れている。私も氏のある出版記念の講演会を聞いたことがある。大変エネルギッシュな人で、社会の変化を熱っぽく語っていたのが印象的であった。

  ドラッカーはウィーンに生まれた。父は国政を左右するほどの高級官僚であり、その交際範囲も、シュンペーター、ハイエク、フロイト、マンと言うように、超ハイクラスの人たちに及んでいた。そのためドラッカーは若い頃からこれらの人々とじかに接し、大いに影響を受けたと思われる。
  長じて氏はハンブルグ大学に入学したが、講義には出席せず、もっぱら向かいの図書館に通っていた。やがて金融の中心フランクフルトに移り、フランクフルト大学に席を置きながら、米系投資銀行へ証券アナリストとして就職する。その後夕刊紙の副編集長に抜擢される。
  やがてヒットラーが台頭、政権を握るに及んで、ドイツに見切りをつけロンドンに渡る。ここで銀行の証券アナリストとしての職を得る。
  そして二十七歳のとき米国に移住を決意、英国の新聞社フィナンシャル・タイムズの米国特派員として活躍する。
  第二次世界大戦の勃発、ドラッカーは政府の依頼で軍需品を生産する企業の経営を立て直す仕事に従事する。ここで後の品質管理の権威者デミングをスカウトする。この辺りからドラッカーの経営コンサルタントとしての芽生えが見られる。
 経済学者は商品の動きに興味・関心を抱く。ドラッカーは人間や社会の動きに関心を持った。ドラッカーは経済学者になろうとは思わなかった。氏は次第に企業の経営に興味を抱くようになった。
  ドラッカーをマネジメントのコンサルタントとして決定的に位置付けたのは、なんと言ってもGMと関わりを持つようになってからであろう。一九四三年、三十三歳のとき、GMの経営方針や構造についての調査依頼があった。ここでGMの中興の祖スローンに会い、「経営のプロ」とはと言うことについての貴重な発見をし、多大な影響を受けた。
  GMは元々シボレー、キャデラック等の自動車会社の集合体だった。それが事業部という形でひとつの会社にまとまった。従って事業部制とか分権化ということに入りやすかった。ドラッカーのコンサルティングの成果はたちまち広がり、フォードとかGEといったビック・ビジネスもこれに習った。
  私が入社した頃、生産性本部から第一回の訪米視察団が派遣された。当時の専務がこれに加わった。専務は帰国後直ちに事業部制への組織改変に着手した。事業部製に改組することはそれ程難しいことではなかったが、分権ということは、分けるほうも分けられるほうも難しかった。
  この頃からわが国でもそれまで主流を成してきた機能別組織から事業部制組織に急速に移行が見られるようになってきた。

ドラッカーは自らを著述家であるといっているように、数々のマネジメントの著書を出している。一九五四年に出版した「現代の経営」はその金字塔と言うべき著作であろう。事業の本質とか、経営についての根源的な問題から説き起こし、マネジメント全般のかなり実務的方策まで、実例を挙げて解説している。しかし私にとってインパクトの強かったのはなんと言っても「断絶の時代」であった。前述したとおり、ドラッカーは商品の動きには関心がなく、人間や社会の動きに興味を持った。「断絶の時代」は正にその表れであろう。
  この書がわが国で出版されたのは一九六九年、高度成長の真最中であった。一体「断絶の時代」とは何のことだろう。早速読んでみた。何となく違和感がある。戦後の苦難期を乗り切り、先進国に追いつけ追い越せを合言葉に、ひたすらガンバリズムで生産性を上げ、効率を追求してきた我々にとっては。
  もちろん当時既に先進的な学者、アーノルド・トインビー、ケネス・ボールディング、デニス・ガボール、ダニエル・ベルといった人達による未来論は出ていた。しかし何となく夢想論のような気がしたものだった。ドラッカーの「断絶の時代は」この未来論に現実のマネジメントをあてはめて、これからの経営はいかにあるべきかを具体的に説いているところに特色がある。
  「断絶の時代」とは何を言っているのか。それはビクトリア時代から続いてきた産業社会が、連続性の終焉を迎え、全く新しい時代に入っていくと言うことなのである。新しい時代はひとことで言えば知識社会である。ドラッカーの造語である知識労働者の出現なのである。

  この頃のこと、生産性向上運動で何とか業績が立ち直ってきた私どもの会社でも、従来のガンバリズムではもはや行き詰まりを感じるようになってきていた。そこで「知的生産性向上」ということを言い始めた。しかし組織の中には、額に汗して働く従来のガンバリズムを是とするものも多く、「断絶の時代」を乗り切るには時間がかかった。

  ドラッカーはGMの成功に続いて、多くの著名大企業のコンサルタントとして活躍した。氏は組織に加わることを嫌い、かのマッキンゼーからの招聘も断り、あくまで一匹狼として活躍した。      
  氏が自ら言っているように、分権化、目標管理、知識労働者、民営化は今日の経済界のみならず、社会に一般化し、単なる言葉としてではなく、社会の仕組みに広く組み込まれてきている。
  ドラッカーは長年の功績が認められ、米大統領から民間人としては最高の栄誉である「自由のメダル」を授与された。しかし氏は「有名になることだけが人生を計る物差しではない。これからもこのことを忘れないでいたい」と言っている。
  九十六歳にしてなお現役、主としてNPOのコンサルタントを行っている。ドラッカーが世の中のコンサルタントとして、著述家として、その及ぼした影響は計り知れないものがある。

                        ( 2005・11 )

(追而)このエッセイを打ち終えて茶の間にもどると、夕刊が広げてあった。そこにドラッカーの訃報が載っていた。謹んでお悔やみを申し上げます。