閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 ド・ゴールとミッテラン
         
―――A・デュアメル 

  フレデリック・フォーサイスの原作になる「ジャッカルの日」という映画があった。そのラスト・シーンは、ド・ゴール将軍が、解放記念日の祝典で暗殺されそこなうと言うものである。ド・ゴール将軍は生涯五回も暗殺の危機に遭遇している。何でも標的が大きいことも災いしているようだ。 
  当時のフランスは、アルジェリアの独立をめぐって大きく揺れていた。フランスはアフリカに多くの植民地を持っていたが、戦後相次いで独立を果たしていった。その最後の砦アルジェリアの独立には正に国の存亡がかかっていた。元軍人・右翼・利権者などが強硬に反対し、フランスは一触即発内乱の危機にあった。ド・ゴール将軍はこの大変な難局を乗り切り、アルジェリアを独立させ、フランスの戦後に決別した。
  ド・ゴール将軍は、戦後における最も輝かしい人、輝かしい大統領として今猶フランスでは信奉者が多い。その大きな功績二つのひとつは1941年、ロンドンに逃れ、対独徹底抗戦を呼びかけ、フランスの名誉を守ったことである。今ひとつは1958年にアルジェリアの危機を救い、共和国を再建したことである。

  ド・ゴールとともに戦後の歴史に名を残した大統領として、ド・ゴールの政敵でもあったミッテランがいる。そのふたりを比較して、A・デュアメルが「ド・ゴールとミッテラン」という本を書いた。 
  この本を読んでふと思い出し、「ド・ゴールとナポレオン」という本を再読した。この本はフランス革命200年記念として出版されたもので、著者はフランス陸軍大学統合参謀大学に留学したことのある前川清と言う自衛官である。
  この本は資料が豊富で参考になるが、ナポレオンとド・ゴールを比較するのは、いささかどうかと思われる。むしろこの本に出てくる、ヒットラーとの比較の方がよほど面白い。

  ド・ゴールは北フランス出身のイギリス系の巨人、ナポレオンは南フランス出身のイタリア系の短躯、前者は高踏的・理性的であるのに対し、後者は庶民的・感情的と違いはあるものの共通点も多い。
  ド・ゴールとナポレオンは共に軍人出身の大政治家であり、フランスの国家的危機を救い、フランスに栄誉を齎した。共に一般のフランス人とは異質な「発想や意志」の持ち主で、それがカリスマ的魅力を増大している。二人とも青年将校時代は反骨的で評価が低かったが、その中で才能を磨き、文・武・政・軍にわたる総合的能力を身につけた。そして二人とも後世に多くの名言を残している。ナポレオンの「わが辞書に不可能と言う文字はない」はあまりにも有名であるが、ド・ゴールの「フランスは戦闘に破れた。しかし戦争に敗れたのではない」に始まるロンドンからの呼びかけは、フランスの歴史に永遠に残るメッセージであろう。
  
  さて、ド・ゴールとミッテランであるが、二人は共に戦後のフランスの歴史に残る偉大な大統領であった。英雄と政治家、右翼・保守と左翼・革新、政策では対立的、世界観・手法においては対照的で、四半世紀の間非妥協的な政敵であった。
  A・デュアメルは、この二人の偉人を比較することは、不遜の謗りを免れないがと断りながら、さまざまな切り口から二人の比較を行っている。私はこの本を読んで、二人の比較より、日本の宰相との大いなる違いに興味を抱いた。
  この二人は共に輝かし雄弁家であり、言論の影響力を知り抜いている。同時に二人とも文筆好みで、作家的野心をもち、大変な知識人でもある。タイプは違うが二人はカリスマ的リーダーシップを発揮、長期にわたる任期を全うし、フランスの栄誉を守り、国際的な地位を高めた。
  
  田原総一朗がサンデー・プロジェクトの中で、「私は小渕さんタイプの首相は、小渕さんをもって終わりとしたい。・・・・」と言っていた。以前自民党の総裁選のとき、同じ番組に出演していた小渕さんは、「私が総裁になったら、皆の意見を良く聞き、皆を良く纏めていきますから。・・・」と強調していた。事実小渕さんはその通りに行動した。まあわが国の良い政治家の典型かもしれない。
  戦後のわが国の首相を見て、強力なリーダーシップを発揮したのは、吉田茂と田中角栄ぐらいではないか。ニューズ・ウイークに外人記者が書いていた。日本は民主主義が未発達で、制度がしっかりしていないから、誰か強力なリーダーが現れると、寄ってたかって降ろしてしまう。確かに強力なリーダーと独裁者は紙一重である。世界の歴史の中、独裁者が数々の成功を残してきた。しかし反面取り返しのつかない失敗も重ねている。それは万民を苦しめ、世の進歩をしばしば止めた。わが国には歴史上強力な独裁者は少なかった。平清盛とか織田信長とかいたがスケールが小さい。
  リーダーシップの欠如と共に、知識人・弁論家・文筆家・・・等もわが国の首相には縁が遠い存在である。吉田茂が弁論家ではないが、文化人であったが。

  戦後のフランスは二流国に成り下がらんとしていた。1958年に政権に復帰したド・ゴール将軍の前には、幾多の困難が横たわっていた。インドシナの敗北、モロッコ、チュニジァからの撤退、アルジェリァの荒廃、アメリカへの根深い依存。加えて欧州統合の選択、核の研究、北大西洋条約への協力等々、大きな決断を要する問題が山積していた。
  ド・ゴールは外交問題に特に力を注ぎ、英米を相手にフランスの名誉を保ってきた。ある時は英国がECCに加盟する事に反対し、ある時はNATOを脱退すると言うような大技も放った。ド・ゴールはアメリカの傘の下にあるフランスが、更にいえばヨーロッパが我慢ならなかった。
  日本はよく顔の見えない国と言われている。誰と話をしたらよいのか、誰が決定権を持っているのかさっぱり分からない。国レベルの重要問題、特に外交問題に首相が乗り込んで膝詰め談判で話を決めたと言うようなことは聞いたこともない。
  ド・ゴールは自らの持つ理想にもとづいて行動する人であったのに反して、ミッテランは現実主義者であった。デュアメルはこう書いている。ド・ゴールは彼の国家主義的信条のために欧州を犠牲にし、ミッテランは欧州の為に彼の社会主義的信条を犠牲にしたと。

  政治と文化はフランスにおいて、いつも密接に結ばれている。フランスの知識人は積極的に政治に参画するし、為政者は様々な文化活動を支援する。ド・ゴールはアンドレ・マルローを、ミッテランはジャック・ラングを文化相に据え、それぞれ積極的に文化・芸術活動を推進していった。
  今日パリを歩くと、古い建物に新しい建物が調和して建てられている。新凱旋門・ルーブルのピラミッド・ポンピドーセンター・・・。それらにはいずれも大統領もかかわっている。わが国は箱物主義、まず土木建築ありで、白くて四角い箱がやたらと目に付く。そして中身はあまり問わない。経済には関心があり、土木建築には熱心だが、文化音痴の政治家ばかりである。

  岸恵子が「30年の物語」というエッセイを書いている。その終章の「ホームレスと大統領」にミッテランのことが書かれている。ミッテランは大統領に就任してから3年、癌に冒された。そのことを知らせずに、2期14年、大統領の激務を全うした。任期満了の少し前、ミッテランはこのことを国民に告知した。大変な使命感と超人的な努力である。
  ミッテランには愛人と隠し子がいた。日本の天皇・皇后両陛下がフランスを訪問された時のレセプションに、この愛人と隠し子が堂々と出席していた。(岸恵子も招待を受けていた)そしてミッテランの葬儀にも堂々この二人は参列していた。お国柄とはいえ、随分わが国とは違うようだ。

  明治以来日本はひたすら富国強兵に走ってきた。そして戦後は経済発展一本槍。徳川時代いやそれ以前を訪ねてみても、貧しかったかも知れないが、大変優美な数々の文化遺産が残されている。強力な独裁者はいなかったが、優れた為政者が歴史に残っている。これからの難しい時期、田原総一朗ではないが、従来型の首相から決別すべき時ではないかとつくづく思うこの頃である。

                       (2000・5)