閑中忙あり   [観たり・読んだり・歩いたり] 目次
 醍醐寺とその周辺
 

  まだ下の子が小さい頃、上醍醐に登った事がある。下伽藍から嫌がる子供の手を引っ張ってつづら折の石段を喘ぎ喘ぎ登る事一時間余、漸く上醍醐に辿り着いた。そこには泉がこんこんと湧き、参詣人が喉を潤していた。これこそ醍醐水、甘露なこと。
  然し二度とこの石段を登ろうとは思わない。それは上醍醐の奥にゴルフ場へ行く道が出来たからである。この醍醐の裏山は眺望が素晴らしく、ハイキングコースになっている。新緑の頃は最高である。
  上醍醐には国宝・重文級の堂宇が六つも建ち並んでいる。ここの五大堂のお祭り五大力尊仁王会には、大きなお餅を抱いて歩く「力餅競べ」があり、よくTVで女横綱が紹介されている。然しこんな山奥に如何して幾つもの大きな建物を建てられたのだろう。
  
  いきなり山の上に登ってしまった。この登山口から600メートル程の所に、太閤の花見跡がある。太閤はここの高台に吉野から700本の桜を移し、花見の宴を張った。今見るとそれほど広い所でないし、桜もあまり無い。
  花見といえば、この醍醐には三回やってくる。しだれ桜、里桜、山桜。年によって時期は異なるが、一番はなんと言ってもしだれであろう。三宝院の入り口にあるのが有名であるが、最盛期が過ぎたのか、近頃上のほうの枝の花つきが悪い。何と言っても立派なのは、ここの霊宝館の庭にある十本ぐらいのしだれである。霊宝館は昨年増改築され、庭もきれいに整備され、しだれも益々美しくなった。  
  やがて染井吉野を挟んで山桜が咲く。四月の第二日曜、豊太閤花見行列が催される。京都や大阪で事業に成功した御大尽が太閤になる。太閤は都の綺麗どころを総揚げして行
列に従える。その費えは計り知れない。輿の上から桜を眺める。正に男の花道。今太閤。

  醍醐といえばやはり三宝院。ここの庭は特別史跡、特別名勝に指定されている。豊太閤が醍醐の花見に際して築庭させたもの。この庭園には全国の大名から名石が献ぜられ、全体にごちゃごちゃした印象は免れない。京都の三名庭に数えられているが、何となく金に飽かしての感があり、好まない人もいるようだ。いずれにしても三宝院は十棟を超す桃山建築の粋が廊下で結ばれ、国宝・重文も数多い。 
  最後になってしまったが、三宝院の塀沿いの桜並木を行くと、大きな仁王門に突き当たる。それをくぐると醍醐寺の広大な下伽藍の敷地に出る。今から50年ほど前、初めてこの寺を訪れた時、五重塔は修理の真っ最中であった。なんでも日本一美しい塔という。その後暫くしてここを訪れた時、何とけばけばしい色かと驚いた。今ではすっかり周囲の緑に溶け込んで、日本一の名に恥じない佇まいを見せている。此処にもしだれの大木が二本ある。五重塔も一段と映える。京都府最古の建造物といわれている。
  五重塔と共に国宝の金堂は平安末期の様式を残している。本尊は薬師如来。醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山として栄えているが、三宝院と共に世界文化遺産にも登録されている。国宝・重文百数十件、寺宝十数万件を数え、霊宝館に納められている。醍醐寺はまた山伏の修験場でもあり、時々法螺の音が聞こえたり、護摩を焚く所に出くわしたりする。
  
  醍醐寺のすぐ南の日野と言う所に法界寺という寺がある。親鸞上人の住んでいた所で、また鴨長明が「方丈記」を書いた所としても知られている。田圃の中に長明が思索したと言われる平らな石が置かれている。

  北に車で少し引き返すと、随心院の立派な門が見えてくる。後堀川天皇より門跡の宣旨を賜った由緒ある寺院。三月には玄関前の梅林が赤い花をいっぱいに咲かせる。ただし紅白の幕で囲って、入場料を取るのは頂けない。
  随身院は晩年小野小町が住んでいた寺として寧ろ名高い。
      花の色はうつりにけりないたずらに
        わが身世にふるながめせしまに     ――― 小野小町
百人一首に納められている秀歌。深草の少将の百夜通いの話はよく知られている。小野小町を慕って雨の夜も、雪の夜も通い続けた。九十九日目の夜、降りしきる雪の中で病を発し、あと一夜を待たず逝ってしまった。
  寺の境内に、小野小町に寄せられた千束のラブ・レターを埋めた文塚や、小野小町が化粧の時に使ったと言われる井戸がある。堂内には小野小町の晩年の坐像が安置されているが、見ない方が良かったと誰しも思うだろう。
  随心院の本殿は寝殿造りで優雅な佇まいを見せているが、何より庭に広がる大杉苔が美しい。
  門前に民芸風なそば屋がある。偏屈な親父がやっていて、とても美味しいが、一時間近く待たされる。文句を言うと追い出されるので注意。

  随心院を後にして少し上ると勧修寺につく。臥竜梅で有名。低く這った白梅。ほかには梅は数本しかない。この一本で夕刊の梅だよりに登場し、人々を集めている。
  広い芝生の庭先に池があり、それを巡るように庭園が設けられている。平安時代には、一月二日この池に張った氷を宮廷に献じ、五穀豊凶を占ったという。昔は随分寒かったようだ。

  車を更に北に進めると、山科の駅にぶつかる。住宅地の間を少し上っていくと、山科疎水を渡る。明治の頃、琵琶湖の水を京の町に引いた。三井寺に発し南禅寺にいたる。ローマには遥か及ばないが、南禅寺にはアーチ式の水道橋がある。
  山科疎水は花の頃行くとそれは見事。桜の大木が両側から空を覆っている。花筏が人を追い越していく。流れは速い。広大な天智天皇陵を過ぎ、流れと競走しながら行くと、程なく山に突き当たる。疎水はトンネルをくぐる。人は険しい山道を越えなくてはならない。降りた所が南禅寺、アーチの水道橋に出くわす。
  山科に戻り、突き当たった所が毘沙門堂。行基によって創建された天台宗の門跡寺院。ここの参道は楓が素晴らしい。石段の上の山門がまた好い。この寺は桜でも有名で、庭内に樹齢百年を越す見事なしだれ桜がある。
  「宗家の三姉妹」と言う中国映画があった。日本に亡命中の孫文が嵯峨野に住んでいたが、秘書と結婚する事になった。その結婚式がどうも見た事のある場所だったので、パンフレットで確認したら、何とこの毘沙門堂であった。

  毎年、醍醐・山科疎水・毘沙門堂と三点セットで花見をするが、二、三日桜の花が目に焼きついて離れない。京都の桜といえば第一に挙げたい。
                     
                            ( 2002・07 )