閑中忙あり [観たり・読んだり・歩いたり] | 目次 |
20世紀最大のプリマ、マリア・カラスの生涯は波乱万丈、栄光と敵意に満ちたものであった。ヴィスコンティの姪キァレッリの「マリア・カラス情熱の伝説」を読むと、マリアが思いのまま生きた53年の生涯を知る事が出来る。 マリアは1923年ニューヨークで生まれた。両親はギリシャからの移民。幼少の頃、両親が不仲になり、母親はマリアを連れてギリシャに帰ってしまった。母親はマリアの音楽教育に熱心であった。才能に恵まれたマリアは忽ち頭角を現し、17歳の時アテネのオペラ座と契約、「トスカ」で本格的デビューを果たした。 マリアは発声技術、感情移入、音域、演劇的センス・・・どれをとってもこれまでのオペラ歌手とは違う独自のものを持っていた。その為もあってか、仲間の嫉妬と意地悪を招いた。マリアは自己に忠実に譲歩も妥協も許さなかった。 やがてマリアは舞台をイタリアに移し、後に夫となり、マネージャーとなったメネギーニと知り合う。そして斯界の大物ヴィスコンティとの協力関係が生まれ、一流アーチストとしての地位を確立した。 出る釘は打たれる。イタリアオペラの最高峰テバルディの代役で、スカラ座にデビューしたマリアは、華々しい成功を収めたが、その後テバルディファンの執拗な攻撃に曝される事になる。イタリアでは批評家、マスコミ、ファンが、贔屓筋に分かれて攻防戦を展開する。マリアは断固自説を曲げずこれと闘った。 マリアの名声は日増しに上がり、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも大成功を収めた。その間、ギリシャの船舶王オナシスとの情事、メネギーニとの離婚と言った話題にも事欠かなかった。 然しマリアは次第に高音域が不安定になり、それが精神的にも影響を与え始めた。自己に厳しいマリアは齢四一歳、ロンドンのコヴェントガーデンの「トスカ」を最後にオペラの世界から身を引いた。以降、コンサートへの出演、レコードの録音といった活動は続けたものの、それも日本公演を最後に引退してしまった。1974年、50才の時であった。 その後マリアは、自らの全盛期のレコードを聞きながら、一人パリのアパルトマンでひっそり暮らしていた。然し重度の不眠症に陥り、大量の睡眠薬で体調を崩していった。そして1977年、53歳でこの世を去った。その死は謎に包まれている。 ヴィスコンティの弟子ゼッフィレッリはマリアの才能を高く評価していた。やがてマリアと共に仕事をするようになり、固い友情で結ばれた。そのざん新な演出は人々の喝采を呼んだ。それがヴィスコンティとの不仲の原因になったのだけれども。 ゼッフィレッリの自伝を読むと面白い。イタリアオペラはサッカー・ゲームみたいだ。敵味方に分かれて「ブーイング」と「ブラボー」の大合戦になる。天井桟敷にはお金を貰った学生が陣取っている。マリアのような個性が強い人は絶好の標的になる。然しマリアは断固自分の芸を貫いた。 マリアがオペラの世界から身を引いた後、ゼッフィレッリは何とかもう一度マリアを舞台に立たせたいと努力したが果たせなかった。 マリアの死後2年経った頃、ゼッフィレッリにマリアの映画化の話が持ち込まれた。親友としてはあまりにも生々しく、その企画を断った。それから25年、マリアの思い出もそろそろ風化しようという時、ゼッフィレッリはマリアの伝記を永遠に残したいと、映画化に踏み切った。 しかし伝記と言っても、あくまでもゼッフィレッリが想像を膨らまして作ったフィクションであり、実話ではない。又オペラの映画化でもなく、オペラは劇中劇として扱われている。 パリの瀟洒なアパルトマンにマリアがひっそり隠遁生活を送っていた。今では訪れる人も無く、マリアは一人レコードをかけ全盛時代の自らの歌声に耳を傾け、過ぎにし日の栄光をしのんでいた。マリアは重度の不眠症に悩まされ、薬漬けとなっていた。 そんな時ロックのプロデューサーをしている友人(かなりゼッフェレッリを模している)が訪れてきた。それはマリアの全盛期の録音を使い、クチパクでオペラを演じるというものであった。マリアは最初「私に誤魔化しを演じろというの」と怒ったが、次第に自分の芸を残しておきたいという気持ちが湧いてきた。マリアはこれまでレコーディングしかしたことのない「カルメン」を提案した。 やるからには完璧でないと気がすまない。スタッフも音を上げる程の入れ込みよう。映画の試写室では「ブラボー」の大合唱。しかしいかに自分の声とは言いながら、クチパクでは仕様がない。マリアは釈然としないものを感じていた。そこへ二作目として「椿姫」が提案された。 マリアはクチパクを拒否し、「トスカ」なら歌えるかもしれないといってテストをしてみる。結果はやはり「ノー」であった。マリアはプロモーターに会い、せっかく大成功と見えた「カルメン」の上映も断った。親友のプロモーターは「カルメン」に相当の資金をつぎ込んでいた。しかし又ロックの企画で取り返すからといって快く了解してくれた。マリアの孤独と薬漬けの日々は続く。・・・ この映画はゼッフェレッリがマリアを想いその天才的芸術性を描いたものである。随所に出てくるマリア全盛期の歌声は素晴らしく、テーマのカルメンの迫力は聴く者に感動を与える。特にラストが良かった。マリアを演じたのはフランスの女優ファニー・アルダンであるが、マリアはかくやと思わせるほどの好演。 芸術家には個性の強い人が多い。個性を発揮し、それを周りに認めさせ、それを貫き通す事は大変難しい。第一に芸のレヴェルが高くなくてはいけない。更に人とは違う自分の芸を確立しなくてはならない。更に大切な事は自己に厳しい事が必須。勿論ベースには天与の才が必要である事は言うまでもない。 マリアは41歳でオペラ界から退き,50歳で一切の音楽活動から身を引いた。まだまだ巨匠といわれ、円熟と讃えられ、音楽活動を続ける事は十分可能であった。マリアはそれだけ自己に厳しかった。しかしその引き際のよさが、マリア・カラスを伝説上の人物として、人々の脳裏に永遠に止める事になるのであろう。 それにしてもイタリアオペラはすさまじい。サッカー場とは恐れ入る。わが国では、贔屓筋の多い歌舞伎でも、僅かセミ・プロみたいな人が、「成駒屋」「松嶋屋」とか掛け声をかける程度である。 来日した外人アーチスト達が一様に日本の聴衆の静けさに感心する。例え演奏が不出来でも形どうりの拍手はする。反面興奮して「ブラボー」と叫ぶ人も殆どいない。この差は果たして国民性なのか、音楽の理解度によるものなのか。 (2003・10) |