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 突入せよ!「あさま山荘」事件
 
  もう昔の事になってしまった。テレビ中継の視聴率が89・7%、後にも先にもこれを超えるものは出ていない。連合赤軍の「あさま山荘事件」。
  1972年2月19日から10日間、あさま山荘の管理人の奥さんを人質にとって立てこもった5人の連合赤軍を機動隊が取り囲み、多大の犠牲を払って人質を無事救出し、連合赤軍を逮捕した。
  その時警備幕僚長として指揮をとった佐々淳行氏が退官後に「連合赤軍あさま山荘事件」という本を著わした。この映画はそれを原作としている。それだけに迫力があり面白い。この映画を見て小泉首相が、敵は内にありと言ったそうだが正にしかり。実感が出ている。

  この映画は特命を帯びた警察庁の主人公と警視庁から派遣された機動隊と現地長野県警察との確執を克明に描いている。げに官僚、ことに警察の縄張り争いはすさましい。この危急存亡の時に及んででもある。昔の軍隊はもっとひどかったらしいが。
  堺屋太一がよく組織論を展開している。氏は機能体の共同体化と言う事をよく言っている。組織は本来目的を果たす為の機能を持っている。その機能がやがて忘れられてしまい、その構成員の地位向上と権限拡大を目指すようになってしまう。それを氏は機能体の共同体化といっている。要するに官僚化と言う事である。
  
  警察庁長官後藤田正晴に呼ばれた佐々淳行は、「君ちょっと軽井沢に行ってこいや」といわれて頭を抱える。連合赤軍があさま山荘に立てこもった午後の事である。
  警察は事の外階級がうるさい。佐々は参事官を立てて、その補佐と言う事にして実質幕僚団を仕切ることになった。長官はメモを書き6つの方針を示した。人質は必ず救出せよ。犯人は生け捕りにせよ。火気・ライフルの使用は警察庁の認可事項とする。・・・・なかなかの難題である。

  現地入りした佐々を待っていたのは、面子にこだわる長野県警と警視庁から派遣された機動隊との確執。既に学生運動の鎮圧の経験がある機動隊は、この事件は長野県警ではとても手におえないと思っている。県警サイドは、我々はライフルや特装車を貸してくれと言っているので、機動隊はお引取り願いたいと言っている。勿論若造の佐々が取り仕切るのは気に入らない。
  会議は冒頭から険悪な空気が漂う。県警の署長は温厚な人で敢えて調整に乗り出そうとはしない。現地にはもう一つの敵がいた。2月の軽井沢、隊員の食事まで凍ってしまう寒さ。まだまだ難題はある。1,000人を超すマスコミ関係者、全国から集まった野次馬。更に困らされるのは現地の事情がよく分からないのに東京から色々命令してくる偉い人たち。

  犯人側の要求はなく、人質の安否も分からない。犯人はライフルと銃弾6、000発持っていて散発的に撃ってくる。機動隊はただ楯で防いで投石を繰り返すのみ。マスコミは一斉に非難する。毎日の記者会見に耐える佐々。
  この局面打開にクレーン車と放水車が用意される。大きな鉄球が壁にぶち当たり、その穴に大量の水が。・・・・山荘に立てこもってから10日目、全国民注視の中、本格的な救出作戦が開始される。第一線の現地、後方の指令本部、偉い方がいる東京。情報は錯綜し、指揮は乱れがち。機動隊は楯を便りに一寸刻みに進むのみ。犠牲者が出始める。マスコミは騒ぐ。
  遂に火気の使用が下りた。大量の放水が功を奏し人質は無事救出。警察官の殉死2名、負傷者は27名に及んだ。

  石原慎太郎がパンフレットに書いている。「あの時日本の警察がしっかりしていたからこそ、過激派の組織暴力が全国に拡散していかなかった。体を張り命がけで戦った男たちを、同世代の一人として誇りに思う」。当時学生運動に同情的な人もかなりいたが、この事件以来急速に流れが変わっていった。
  今の警察だったらどうであろう。新聞やテレビでやたら警察の不祥事が報ぜられる。汚職だとかセクハラだとか暴力団とのつながりだとか、取り締まる側が事件を起している。石原慎太郎の言葉ではないが、あの当時の日本の警察は世界一信頼が高かったし、世界一治安も良かった。
  今国会では有事関連法案が論議されようとしている。震災だとか、テポドンだとか、不審船だとかあって、遅ればせながら危機管理が叫ばれている。新装なった首相官邸はそれに関するハード面はかなり整備されているようである。然し有事対策に必要な事は、情報の収集力であり、分析力であり、判断力である。そして更に大切な事は統括力であろう。有事には百家奏鳴になりやすい。マスコミもこれを増幅する。
  
  この映画の最後に警察庁の偉い人が、この作戦は失敗だ。佐々は首だと叫ぶ所が印象深かった。
                             ( 2002・ 05 )