海外に暮らして
ここオランダに暮らして約2年、それまでのスイスと比べて同じヨーロッパでも随分違うなと思うところ、逆にやっぱり同じヨーロッパなんだ、とても似ているなと思うところ、いろいろある。スイスにはまる3年暮らしたが、ドイツ語圏スイスにあるベルン州トゥーンは人口4万、きちんとして控えめ、という言葉がぴったりの土地では、暮らし始めた当初から「これがスイスだ!」と一気に私なりのスイス感を持つことができた。逆にオランダは何もかもがモヤモヤとして、まるで湿地帯の葦の茂みの中へずぶずぶと入っていくような、行けども行けども先が見えない焦燥感、高見に立って眺めようとしても、ぬかるみから足が抜けない、何も掴めないもどかしさがあった。それが不思議なことに、表題の言葉を私なりに頭に置いてみたところ、たちまちすっきりと割り切れたような気になった。 とらえどころのないオランダ、なぜだろう。例えばスイスならどこでも感じる「隣人の目」というものがある。言い換えれば、共通の規範があって、それは暗黙のうちにみんなが了解している、だから、こちらの行動に対して周囲の反応がだいたい予測がつく、私の行動もその予測の延長線上にある。そういう目に見えない基準の様なものだ。ところが、オランダに来てからしばらくの間はそれがさっぱり見えてこなかった。 ![]() ![]() ![]() オランダではこういった剛と柔の混在、二律背反みたいな部分ばかりが目に付く。2年近く暮らして驚くこともすっかり減ったが、オランダの人たちの暮らしの規範は何に基づいているのだろう、それが分からないまま、モヤモヤとした気持ちでいた。 ある日、オランダ語の先生から「オランダ人はtolerant(寛容)だと思いませんか」と聞かれ、「ホントにそうですよね」と答えている自分に気づいて、「そうか、この言葉がオランダの人を理解するためのキーワードだったのだ」と思い当たり、そのとき全ての疑問が氷解した。 自転車王国オランダはどんな悪天候でも必死に自転車をこいでいる人の姿を必ず見かける。凍てつくほどの寒い日でも、雨の中、風の中でも、そんなものは意に介さない人たち。子供には「雨に当たると背が伸びるのよ」と言って雨でも自転車通学させるお母さん。車の渋滞何のそのという人たちだから、辛抱強い人たちだからできることかなと納得できる。それと同時に、そういう人たちだから、いろいろなことに対して寛容でいられるのかも知れない。 自分に対して忍耐を強いる。それは言い換えれば他人の行動に対して寛容になれるということでもあるだろう。これがスイスの場合だと、同じように堪え忍ぶことを得意とする人たちだが、社会全体のルールを設け、自分もそれに従う代わりに、他人にも従うことを要求するという行き方だろうか。ルールが厳然としてあるから、よそ者の私にもわかりやすかったのだろう。 そこに何もルールらしきものが見えず、ルールがあってもそれが他人に迷惑をかけない範囲ならルール破りも見なかったことにしよう。何があってもさして気にしていないように見える人々。ちょっとラテン系の血が入っているんじゃないの、と思いたくなるような彼らの行動が、実はtolerantなオランダ人に備わった寛容の精神だったのだ。 (Mar.11, 2001-revised) Home |