海外に暮らして

言うは易く、行うは難し


好奇心の遺伝子というものがあるらしい。介護犬、盲導犬に向いているとされ、人間に常に寄り添うレトリバーは、この遺伝子の働きが少ないが、柴犬は反対で、好奇心が旺盛だそうだ。日本で飼っていた柴犬をスイスに転勤になった際に飛行機に乗せて「呼び寄せ」た。散歩に出ると、他の犬は引き綱など無くても、飼い主に忠実で、あまりよそ見もしない。ところがわが家の柴犬は、こっちのペースなんて我関せずの風情で、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、きちんとしつけていないせいだとばかり思っていたが、どうもそのせいばかりではないようだ。

人間にも好奇心の遺伝子はあるのだろうか。おそらく、全員が持っているだろう。好奇心の発露は珍しいものに関心を抱くということだろうか。子どもの頃、足首を骨折して松葉杖のお世話になった時期がある。不自由だが、それでも自分で動き回れるのはありがたいから、どこへでも出歩いた。人混みの多い通りを歩いていると、通りすがりに私のことを、私の足をじいっと見ていく人がけっこういた。振り返りながら見ていく人もいた。`こちらは気分いいわけがない。松葉杖程度で、それほど珍しいことでもないだろうが、これも一種の好奇心の表れと言えるかも知れない。

いろいろな国で暮らしてきて、我が家族そのものが好奇心の対象だったんじゃないかと、よく思う。トルコでは、通りすがりによく「チン」と呼ばれた。これはトルコ語の中国人のことだ。アルジェリアにいた頃は、たまに正確に「ジャポン」、大抵は「コレ」と呼ばれた。フランス語で韓国(朝鮮)を指す。日本人の姿をあまり見たことがない人々が多かったせいか、たいてい物珍しそうな顔をする。家族で動物園に行くと、檻の中の動物よりこっちの方が珍しいらしく、遠巻きにしながら穴のあくほど見つめられることもあった。

アルジェ日本人学校、子ども達は日本で使っていたランドセルを背負って、スクールバスで通学する。このランドセルが地元の子ども達の好奇心をくすぐるらしい。普段はドアトゥドアだが、学校の帰りに友達の家に寄ったりした帰りに、このランドセルを後ろから掴まれたり、冷やかしらしい言葉を浴びたり、石を投げられたり、子ども達の間に険悪な空気が流れることがしばしばあった。

帰宅すると、その日一日の出来事を子ども達は私に報告する。こんなことがあったんだよ、とランドセル事件をいかにも「あいつらは悪い」と言わんばかりに話してくれる。私は、こういう時こそ憎しみを育てないよう、将来の友情の目を摘まないよう、子どもに説くのが親の努めとばかり、「それは、みんなあなた達日本人の子と友達になりたいだけなのよ。だけど、どうやってその気持ちを表したらいいか分からないから、ちょっかいを出してしまうの。この次はにこっと笑ってごらん」と返事したものだ。

ある日、私は子供の友達数人と家の周りを歩いた。付近は遊び場があるわけでもないし、住環境が整備されているわけでもないので、普段は、友達が来ても家の中で遊ぶのだが、この日は、どういうきっかけだったか、外へ行ってみようということになった。わが家の前には石ころだらけの空き地が広がっており、かなり離れた位置に高層アパートが何棟か並んでいた。広い空間を前にしてきゃーきゃー騒ぎながら走っていく子ども達を追いかけてその空き地を横切ろうとした。すると、どこからともなく石ころが飛んできた。幸い、私のすぐ目の前をかすめただけ。だが、私はカッとなってしまった。辺りを見回したが、どこから飛んできたのか、誰が投げたのか、人の気配など全くしない。誰かが高層アパートの一角からこちらを狙って投げてきたことは間違いない。私は思わず誰にともなく、「なーんて危ないことするの!?」と、厳しい顔で叫んでいた。その夜、私は「日中、こんなことがあったのよ」と夫に向かって訴えた。話しながら、私は気づいた、子ども達は私の説明に納得できなかっただろうな、と。
(Feb.9, 2001)

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