海外に暮らして

もっと褒めよう-そして伝えよう、あなたの思い 


「なかなかよく弾けたわね!毎回進歩が感じられる…」
数年前にチェロを習い始めた。ピアノを長いことやっていたので楽譜は読めるが、ぽんと叩けば一応それらしい音が「勝手に」出るピアノと違って、弦楽器は右腕と左腕が全く違う動作を同時に、しかも的確に動かさなければまともな音一つ出ない。とても上達しそうにないなぁと、くじけそうになったことが何度もあったが、不思議とやる気をなくすこともなく続いている。その秘訣が先生のこの一言なのかもしれない。

先生から見たら生徒の演奏はとても納得できるようなものではないはずで、直すべき点は数限りなくあるに違いない。だが、毎回何かしら褒めて下さる。必ず良いところを褒めて、それから、ここを直したらもっとよくなる、と指摘してくださる。その箇所がうまく弾けた時、先生の褒め方はすごい。ひときわ大きな声で嬉しそうに「そう!そう!それでいいのよ!」と。

オランダの子供の育て方を見ていると、やはり褒めて褒めて育てているように思う。どの子の顔も子供らしいおおらかな表情をしている。実際に言葉を交わしてみると、小学校の低学年程度の年齢でもきちんと自分の考えを述べるし、私のような「外国人」でしかも「おばさん」に対しても臆することなく、私がオランダ語を解するかどうかお構いなく、普通にオランダ語で話してくる。そして、「私は計算が得意なの」とか「僕はボールを蹴るのがうまいんだ」とか、常日頃から親や先生に褒められているに違いない自分の長所をはっきりと言う。子供が育っていく過程で、自己を確立していくことの大切さ、何よりも自信を持つことが大切と考えられているのだと思う。

アメリカで子育てを経験してきたつちやみちこさんのホームページ「つちやみちこの海外教育情報」に「褒め育ては子育ての根幹」と題して、子供との接し方アメリカ流の極意がリストアップされている。つちやさん曰く、アメリカの教育の根幹は褒めることだそうだ。

もっとも、褒められてばかりいたら、今度は逆に自信過剰になりはしないか心配になる。そこは社会の中で、あるいは学校教育の中で、きっちり現実を見つめる目を持つようになることでバランスが取れるのだろう。実際、オランダの場合は、12歳で将来が大体決まってしまう。全国統一学力テストの成績次第でその後の進路が大まかにしろ、分かれてしまうのだから現実は厳しいのだ。

何でも褒めればよいのかというと、それがそう簡単には行かないことも私は体験済みだ。いつも同じような、紋切り型の褒め方では子供のほうが全然本気にしてくれない。「ママ、本当にそう思ってるの?」と訝しげな顔をされたものだ。

いずれにしても、褒めるというのはそれなりの技術も必要で、いいところ、優れている点をしっかり見極めなければならない。全体の基準があってそれに当てはめて判断するのとは根本的に考え方が違う。私がイヤだなと思うのは、親がわが子のいいところに目を向けず、本人を前にして、「なんでこんなこともできないの!?」と貶す姿を目にした時だ。できないことを責める前に、できたこと、できることを褒めるべきだと思う。

それと同時に、いまの日本に必要なのは、しかり方、しかられ方の見直しかもしれない。
他人の子を注意できない社会は社会ではないと常々思うのだが、日本は今まさにそういう状況が蔓延しているようだ。小さいときに身につけなればならない社会のルールを見につけ損なったまま成長し、他人から咎められると、冷静になって考えれば理屈にかなっていると納得できることでも、逆上してしまうケースもたくさんありそうだ。最近逆切れと言う言葉をよく聞くが、これはまず「切れる」というすでに「逆上」があって、それに対してまた逆上するわけで、それほど逆切れが多いのだとすると、他人に対して意見を述べるその方法も感情に任せてしまうケースが多いということなのだろうか。(間違っていたら、指摘してください!)

子供は褒めて育てよう。それも上手に褒めて育てよう。同時に先生も褒めて育てよう。先生ははじめから「先生」なのではなく、先生になる資格のある人が現場で経験を積むうちに本物の先生になっていく。それは親が子供を育てながら、子供から逆に学びつつ、本物の親になっていくのと同じだと思う。最初から完璧な親はいない。同様に先生も若いうちは失敗してもいいじゃないか、先生だけに責任を押し付けるのではなく、子供も親もみんな補い合っていこうじゃないか、そういう関わり方が必要だと思う。

(June 14, 2003)

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