海外に暮らして

もったいない、について-続き- 


毎日数時間、ひどいときは給水時間3時間ということもあったアルジェ、日本からパリ経由で着いたその日から、蛇口をひねっても水が一滴も出ない暮らしが始まったのだった。そうなると生活の知恵が生まれてくるもので、水が出ている間にとにかく水を貯めるわけだが、最初のうちはバケツに貯めた水を柄杓ですくって使っていた。だんだんに、それこそ「知恵」がついてくる。日本で売っている風呂水給水ポンプ(バスタブの残り湯を洗濯機に給水するための装置)を使い、ホースの先をキッチンの流し台にセットして柄杓と決別、原始的生活から解放された。そのために水を貯めるポリタンクも、夫が私の肩の高さほどもある大きなものも見つけてきてくれた。

そのような毎日の暮らしの中で、水を浪費している人を見て、私は「ああ、もったいない」と身を切られるような切ない気持ちになっていた。「背負い水」という言葉があるそうだ。その人の一生を通じて使える水の量は最初から決まっている、ある一定量を背中に負っている。だから無駄に流すことはあとで使える量がそれだけ減ってしまうことだ。私はこの言葉を当時の日系の新聞で読み、そうか、水の無駄使いが身を切られような気分にさせるのはそのためなのか、と納得したものだ。

それ以来、身を切られるような切なさを私流に「もったいない」と表現してきた。例えば、造成中の掘り返された大地を見ると、現に自分自身がそうやって作られた建物に住み、恩恵を受けていることはさておき、地球が泣いている、丸い地球がでこぼこになるなあ、もったいないと感じてしまう。伐採された木の切り株を見たときも同様、もったいないことを、と悲しくなったりもした。台所の流し台やバスルームの浴槽を洗剤でぴかぴかにするときも、きれいにしているつもりが結局は河川を汚しているのだと思うと、やるせなくなる。そうやって考えていくと、人間が地球上で生きていくということは、かくも地球を汚し、壊すことなのかと厳粛な気持ちになる。

最近もったいないと思うことは停車中の車のアイドリング。大気汚染の元凶として排気ガスの占める割合が高いことは周知の事実で、一番いいのはガソリン車に乗らないことだが、それを実行するのははなはだ難しいし、せめてわずかでも排気ガス放出を減らそうという程度の、大して実効性のない話だと思う。だから、「もったいない」と思うほどの問題ではないのかも知れないけれど、ちりも積もれば…で、全体としてはやはりゆゆしき問題と言えるだろう。オランダはこれに関してほとんど注意を払わないが、スイスでは徹底して停車中はエンジンを切っていた。また、ドイツ国内を車で移動していた夫は、信号で停止したときにエンジンを切らないでいたら、後ろの車から人がやってきて注意されたそうだ。日本ではどうだろうか。三年ほど前に一時帰国したとき目にした光景は、様子が全く違うので、それこそ切ない気分だった。幹線道路沿いのコンビニの前で車が止まる。運転していた人はエンジンを切らずにコンビニへ。配送中のトラックが道路脇に停まっている。運転手はいない。エンジンはやはりかかったまま。最近はどうだろうか、少し変わってきたのだろうか。
  (Mar. 13, 2003)


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