海外に暮らして

一時帰国で見た日本



夕闇迫るころ、成田空港から箱崎へ向かうリムジンバスの窓の向こうに、なだらかに起伏を描く瓦屋根の家並みが続く。満開の桜の木がここかしこにうっすらとほの白く枝を広げている。そこに点りはじめた灯りをバックにして家路を急ぐ車の流れを見ているとまるでサイレント映画のワンシーンのようだ。飛行機を降りて吸い込む空気がやわらかい。通関、荷物検査、すべてベルトコンベヤーに乗せられたように順調で、あぁやっぱり日本だなと妙に感心する。「花見渋滞」の中、バスはのろのろと進む。席はほぼ満席なのに、日本語と英語のお決まりのアナウンスが流れる以外は人の声ひとつなく、心地よい静かさが漂う。窓の外は3車線すべて前も後ろも車・車・車。隊列を乱す車は一台もなく、クラクションの音もまったく聞こえない。街灯の明かりが反射してどの車もきらきらと輝いて見える。ほとんどの車の運転席にはカーナビ装置があるし、私の住むオランダではまだ見たことのない種々の新型車も数多く走っている・・・ 一時帰国するたびにこれが日本だとまず実感するのがこのリムジンバスの中のひと時だ。

さて、今回2週間ほどの日本滞在だったが、私は今までと多少違う印象を持って戻ってきた。これまでは帰国するたびに人々の顔つきがどんどん険しくなっていくような印象を受け、社会全体に優しさがなくなってしまったと思うことが多々あったが、一年ぶりに踏んだ日本の大地はやわらかく、意外なことに人々はおだやかな顔つきで、どこか憑きものが落ちたような涼しげな印象を受けた。これが意外だったのは、少ない情報を頼りに想像していた状況からはかけ離れていたからに他ならない。

まず、景気後退や失業率の上昇など、暮らしへの不安を感じる人が増えて暗い印象を受けるかと想像していたのだが、とてもそんな風には見えなかった。消費の冷え込みで人出が減り、街行く人も暗い顔してるんじゃないか、愛想が悪くなったり冷たい態度の人が増えたんじゃないだろうかという予想は見事に外れた。新宿や銀座へ行けば以前と同じように人の流れはひっきりなしだし、レストランやデパートもずいぶんと賑っていた。今までと違うとすれば、人ごみの中で前から来る人の流れに圧倒されて先へ進めずに立ち往生するような怖さがなくなったことくらいだろうか。

それだけではない。以前よりずっと居心地のよい雰囲気がかもし出されている。たとえば、エスカレーターでは駆け上がる人のために片側によけて立つ乗り方が徹底してきた。また、カウンター前や公共のトイレ前のフォーク並びはすっかり定着したようだし、電車内での携帯電話がめっきり減った。周囲の迷惑を顧みずに大声で電話する人は勿論いない。文字メールができたからか、前回の帰国時によく目にしたような、車内のほとんどの人がうつむきながら黙々と小さな四角い箱を手にして親指を動かしている異様な光景もなかった。

電車の中での席の譲り合いもずいぶん目にした。今までだってお年寄りや体の不自由な人に席を譲るケースはたくさんあったはずだが、ややもするとスマートさに欠けていた。それが今回はちょっとした言葉のやり取りがあり、譲るほうも譲られるほうもごく自然な感じがした。階段の脇にはエスカレーターの設置が増え、車椅子の人にさっと手を貸す若い人の姿も何度も目にした。一言で言えば、町の中に優しさが復活した感じだ。

この話を友人にしたら、春休みで問題児予備軍の子供たちが比較的少なかったからじゃないの?と一蹴されてしまったが、確かにわずか2週間の滞在で、しかも限られた地域を動き回っただけで何がわかるというのだろうか。だが、それでも敢えて声を大にして言いたいのは、これが不況のもたらすメリットなのではないかと思うからだ。不景気で先行き不透明になったからこそ何が本当に大切なのか、経済成長の流れの中で忘れかけていたものに気づいた人が大勢いるにちがいないと思うからだ。

日本の新聞を読んでいると、「政治家よしっかりして」と思わず力が入ってしまうような残念な出来事や悲しい事件などが多いせいか、外から見ている限りでは、日本の印象はあまりよくなかった。実際に歩いたり、人と会って話したりした印象とはずいぶん違う。メディアはニュース性のある出来事を中心に取り上げるからなのか、新聞を読んでいると次第に浮かない顔つきになり、ため息ばかり出てしまうことが多い。まさにデフレスパイラルを地で行くような、負の連鎖気分に見舞われてしまう。実際には気分だけの問題ではなく、実体を伴う社会的経済的問題は大いにあると思う。だが、重大な病も気分次第でよくなることが往々にあるように、こういう時こそ素敵な話や勇気を与えられる記事に触れて前向きでいたいものだ。その意味でメディアの担う役割は大きいと思う。

今回、久しぶりに会った友人たちにあるひとつの質問をしてみた。電車の中で注意されたことを根に持った若者の犯罪など、これまで考えられなかったような事件が多いので、新聞で知る日本の様子はもしかしたら誇張されているのではないか、実際の日本はそれほど荒んではいないのではないか、それを確かめたくて「電車の中や街中で行儀のよくない若者がいたら注意しますか」と聞いてみた。答えはほぼ全員が「注意したいとは思うが、できないだろう」というものだった。逆恨みによる殺傷事件が多発していることから、見て見ぬ振りをせざるをなくなっているというのだ。

さらに、「相手をカッとさせるようなものの言い方をしなければ、つまり穏やかな言葉を使えば納得してもらえるのではないか」との問いには「婉曲的に言っても相手は何のことだかわからないという顔をするか、まったく無視されるだけだから」と予想外の返答が戻ってきて、二の句がつげなくなってしまった。正義感を持った人や責任感のある人たちが決して減っているわけではない、だが、他人との係わり合いを極力避けようとする社会の風潮は、常識はずれの若者を野放しにし、心ある人たちの正義感や責任感をも骨抜きにしてしまうのだろうか。

大人が子供にその振る舞いを注意するという場面はロンドンやパリなどの大都会でも見かけたし、私が住んでいたドイツ語圏の小さな町でもよく見かけた。私自身が外国人であることから土地の人に注意を受けることもしばしばあった。だがここオランダではほとんど見ない。困っていればいつでも親切に手を貸してくれるが、あまり他人のことに干渉しない人達らしく、わが身に直接被害が及ばない限り、たいていのことはうるさく言わない。多様な文化を受け入れてきた歴史を持つ国の、現実的な対応なのだろう。最近の日本は表面的にはこのオランダ式に近づいてきたように見えなくもない。だが、生まれてきたときから自立することを教えられ、自分で考え自分で決める人たちだからこそ、他人の振る舞いも尊重できるのだ。そう考えていくと、一人一人が責任ある行動を取っているとは言い難い日本社会は、今後どこへ向かおうとしているのだろうか。

滞在中、一度乗ってみたいと思っていた長野新幹線「あさま」で軽井沢へ行った。所要時間70分。昔は3時間ほどかかった記憶がある。座席が広い。揺れをほとんど感じさせない乗り心地。こんな快適な電車はヨーロッパにあるだろうか。JRの最近の大ヒット(?)suica然り。SuperUrban Intelligent Cardの略だそうだが、まさに一枚のカードの賢さに驚かされた。やはり日本は技術を誇れる国であり続けて欲しい。それだけではない。花屋の店先は着物の小紋柄のように繊細で微妙な色合いの花で埋め尽くされ、文房具店に並ぶ文具からは和紙の風合いや色合いが微妙なハーモニーをかもし出す。ラッピング用品のなんときらびやかなことか、品揃えのなんと豊富なことか。和食の美しさにいたっては言わずもがな。こうした日本人の繊細な感性を世界に向けて大いに発信して欲しいと思う。 (May 29, 2002)



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