海外に暮らして

世界の変わり目で


9月11日を境に世界が変わってしまった。
誰もが同じように感じているのではないだろうか。それは出来事それ自体の凶悪さや被害の大きさや悲しみの深さもさることながら、メディアの力によるところも大きい。世界中の人が遠く離れた地点で起きている物事をあたかも目の前で行われているかの如く、ほぼ同時刻に見たり聞いたりするのだから、そのインパクトはこれまでのどの出来事より一瞬にして世界を震撼させ、他人事ではなく我が身に起きた出来事のようなショックを与えたと言えるだろう。

あの日以来、私は来る日も来る日もテレビやラジオ、インターネットや活字の新聞などにかなりの時間を費やしている。刻一刻と変わる状況、一体この「戦争」をどう捉えるべきなのか、誰が、何が問題なのか、いま一人一人が真剣に過去を振り返り、将来を憂えているのではないだろうか。アメリカがこれまでのように力で相手をねじ伏せようとしても、もはやその効力は決して万能ではない。それどころか、戦場にされた地で無数の人々が悲惨な運命に直面させられている上、白い粉が恐怖と一緒に全世界を相手に送りつけられ始めた。

「テロリストを許すことは断じて出来ない、しかし、テロリストをそこまで追い詰めた原因はどこにあるのかを考えてみたことがあるのか?」良識ある人達の多くがこの点を重要視している。その反省なしにいくら爆弾を落としても、事態は悪化するだけだ、と多くの人が考えている。たしかに、抑圧、偏見、不平等、不条理、etc.etc. この地球上に富や繁栄が一部に集中する一方で、貧しさに喘ぎ、苦しむ人たちがいる以上、現状に対する真の解決方法はあり得ないのかも知れない。その意味では、繁栄を享受してきた国は、日本も含め、何らかの責任の一旦はあるだろう。だが、それもテロリズムはこの地球上には居場所がないのだということをすべての国々が共通の認識として持つ事が大前提だ。

そんなことを考えながら、身の回りで起きる小さなできごとについてあれこれ思い出している。

犬を連れて散歩に出る。運悪く相性の悪い犬とばったり出会い、どちらともなく喧嘩を始めることがままある。何しろほとんどの場合飼い主は引き綱をはずして散歩させているのだから。なんとか双方の犬を引き離し、一件落着、こっちは起きてしまったことはしょうがないし、怪我もなかったのだからやれやれとほっとするのだが、相手はちがう。なにやら険しい顔で私の方を睨みながらオランダ語で一気にまくし立てる。その語調からして非難めいた内容だとわかるが、言葉が分からないとこういう場合にぽかーんとしているしかないので却ってありがたいと思う。もし1から10まで分かってしまったら、こっちも黙っていられないかも知れない。そうなると互いにいやな思いをすることになる。

毎日の暮らしの中で、言葉の壁が幸いして論争にならずに終わったことは、海外に暮らしていて数限りなくある。こっちの言い分を伝えられないから、相手が一方的に悪くてもまあ仕方ないや、と諦めることも多いが、からかうつもりでなにやら言葉を投げつけられ、黙ってニコニコするか、感情の赴くままに日本語で投げ返すか。その程度で終わってるのも言葉の壁があるからかもしれないが、きちんと伝えられないために互いに理解し合えないことや、誤解されることもあることを考えると言葉はやはり大切だと思う。

こちらで車の運転をしていると、日本人だったらこのくらいのことで髪を逆立てたり、腕を振り上げて怒ったりしないだろうなと思う場面をよく目にする。隣の車線を走る車の運転席で、クラクションを鳴らし、なにやら身振り手振りでがみがみ言ってる人。車を止めてわざわざ車から降りて文句つける人。いろいろだ。その様子を見ていると、なぜかテレビに映るパレスチナとイスラエルの果てなき抗争を連想してしまう。

昔、アルジェにいた頃、政情不安から街に戦車が繰り出され、発砲事件なども度々起きた。幸い、家が危険地域から僅かに離れていたので、危険を直に感じることはなかったが、夫の同僚や日本人学校の先生方はひやっとさせられる経験もしたそうだ。同じ家の階上に住んでいたレバノン人の母子は、その状況を見てもびくともしなかった。親兄弟が住むベイルートはこんなものではないからと。常に戦争と隣り合わせに暮らしてきた人は強いと思った。その彼女も私達が日本に帰ってしばらくして、ベイルートに戻ったと聞く。どんなに危険でもそこが自分たちにとって帰るべき安住の地なのだろうか。

だいぶ前のことだが、スイス人のフランス語の先生と日本で議論したことがある(ほとんど日本語と英語だったが)。 戦争で身内を殺された人は、その恨みを生涯忘れることはないだろう。彼はそう断言する。それと同じように死刑も恨みを晴らすためには必要だとも言った。私は、いつまでも相手を怨み続けたところで死んでしまった者は還ってこない、許すこと、この世の中から憎悪の感情をなくしていけば、いつかは真の平和が訪れるのではないか、と言った。彼は、断じてそんなことは出来ない。やられたらやり返すのみ。こう主張した。

戦う本能は男性に備わった特質なのだろうか。女性は本質的に争いを好まない。(と私は思う。)人類の歴史で飽くことなく繰り返されてきた戦争。それはほとんどの場合が男性中心だ。種族保存の本能が男性の場合は他を倒すことに発揮され、女性の場合は争いを避けることに発揮されるからかも知れない。世界に真の意味での平和が訪れるためにいま私達は何をなすべきか、考えても考えてもいっこうに出口がみつからない。
(Oct. 17, 2001)

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