海外に暮らして

「自立した社会の落とし穴」


窓の向こうで、朝早くから二人の若者がスコップとハンマーを使って石畳の補修に精を出している。これで何日目だろうか。朝7時には仕事を始め、コーヒータイムをとり、昼休みを取り、午後3時半には仕事を途中で放り出して帰ってしまう。切りのいいところまで、という発想はないらしい。工事現場などでは、終業時間が来たら、たとえクレーンで何かをつり上げている途中でもそのままストップして帰るなんてざらだ。商店は閉店時間ぴったりに閉めたいからか、だいぶ前から片づけ始めるし、滑り込みセーフで買い物したい私の目の前で情け容赦なくドアは閉まる。時計を見るとまだ5分前なのに。

駐車場に車を止めたいけど一杯だ。そこへ用事が済んで車に乗り込もうとする人がいる。私は彼等が車を出すのを近くで待つ。ところがなかなか出ない。次に止めたい人が待っていても、だからといって急ぎはしないのだ。実に悠々とマイペースだ。そんな時、なぜ待っている人の気持ちを考えないのだろう、といらいらしたりする。

レストランで食事する。日本のようにレジで支払いをすることはまず無いから、テーブルで勘定書を見て、間違いがないかチェックしてからおもむろに支払う。決して合計金額だけを見て払ったりしない。人任せにはしないのだ。納得の行かないことはしない。

外国語学校に通っていた頃、クラスには日本人は一人もおらず、ロシア、スロバキア、アフガニスタン、イタリア、イギリスなどさまざまな国の人がいた。クラスはいつも賑やかだ。解らない点があるとどんどん先生に質問する。それに対して、自分はこう思うということもがんがん主張する。子どもが通っていたインターナショナルスクールでも、父母がミーティングの席上で、堂々と発言する姿をたくさん目にしてきた。

翻って日本ではどうだろうか。率先して周りの人の仕事までやってしまったり、多少時間オーバーでも切りのいいところまでやるということはそうそう珍しくない。駐車場では、後の人のことを考えて、駐車していた車を大急ぎで出すだろう。
また、勘定書をこと細かく調べる人は少ないだろうし、大勢の前で質問するには大変勇気が要りそうだ。講演会が済んだ時などによく目にする光景は、演壇から「何か質問はありませんか」と講師が促しても誰も手を挙げない。ところが、これで終わりです、とお開きになった途端、講師の許に質問をするために歩み寄る人のなんと多いことか。

オランダで暮らしていると、人々が実にしっかり自分というものを持っていることに気づかされる。自立している、割り切っている、甘えがない… 仕事に対する考え方の違い、仕事を含めた社会の仕組みの違い、そういった点も大いに関係あるだろうが、他者を当てにしない、依存しない、余計なことに気を回さない。どの点を取っても、日本人に備わっている特質とは言えないだろう。日本人はどちらかというと、人を当てにするし、基準が自分になくて周りの人にある(もっとも、最近の日本人は自己中心的で、周囲が目に入っていない、などと言われるが)。その分、却って仕事はうまく運ぶし、摩擦も少ないのではないだろうか。

自主性を育てよう、個性を大切にしよう、と長年叫ばれてきた。そして、確かにしっかり自分を持つことは大切だと思う。しかし実際に「個人の確立した国」で暮らしながら思うことは、日本の人たちの思いやりとか気配り、仕事への対し方など、日本人の美徳が「自ら考える」ことで、失われていくのではないか、中途半端に自己主張する風潮は却ってマイナスなのではないかということだ。
(June 16, 2001)

Home