海外に暮らして

「日本の空気」


久しぶりに一時帰国し、日本の空気に触れた。「日本の空気」、日本に暮らしていると、何気なく吸って別に何も気にならない空気、暮らしている場所が違うと、この「吸いこむ空気」までどこか違うような気がする。

まず、成田空港。飛行機からおりて空港ビルの中を流れに沿って歩き、パスポートコントロールのあたりでまず「ああ、日本だ」と感じる。だが、このときはまだ何となく何かが日本的だけどそれが何か分からない。荷物検査も済んで、出迎えの人々でにぎわうロビーに来ると、空気が違う、と突然気づく。音の響き方が何となく柔らかく、目に入る光景も、どこか直接的でなくて、穏やかだ。リムジンバスの切符を買い、礼儀正しい係員のきびきびした姿を横目にバスに乗り込み、車内から人々の様子、高速道路の車の流れ、車窓に流れる懐かしい景色などを観察する。静かだ。交通量はかなりあるが、耳はほとんどそれを感じない。車自体のエンジン音も小さいような気がするし、追い越し車線を猛スピードで飛ばす車も見ない。全てが流れに乗って整然と進行していく世界、とでも言えるだろうか。

空気が違う、そう感じたのは、11時間前に吸っていた空気と比べて温度や湿度が違うという物理的な違いはもちろんあるが、人々の醸し出す雰囲気、もっと広範囲に捉えれば風土の違いを私の五感が察したと言えるかも知れない。

アルジェリア滞在時、80年代の後半のことだが、めったにできない一時帰国の折りに、私はこの「空気の違い」を最も強烈に感じた。それは、真夏の気温が40度を超すような厳しい気候の中でハードシップの高い生活を余儀なくされていた緊張からの解放感と相まって、これが世に言うオリエンタルなムードなのかと、妙にくつろげる気持ちになったものだ。ちょうど真夏の時期で、外は燦々と太陽が輝いている。その光の一条一条が空気中の水の分子を通ってくる間に丸くやわらかになって降り注いでくる気がした。その光を浴びて、人々の顔つきも、アルジェリア人の濃いめの顔を見慣れた眼には一歩も二歩も控えめに見え、「目には目を」的な強烈に男性的風土にはない、たおやかな日本を意識させられたものだ。

だが、今回は「空気が違う」ことが少しも嬉しくなかった。確かに日本の土を踏むことの安堵感はある。しかし、たおやかな日本だと感じた部分が今度は「主張がないなあ。どうしてこんなに画一的なんだろう」と人々が皆同じように見え、何もかもが整然と進んで行くように見えるのが不思議でならなかった。

例えば、デパートでも、小売店でもいい、ちょっと買い物するとしよう。あるいはレストランやファーストフードの店で食事することにしよう。商品の数や種類は莫大な量なのに、とても美しく並べられ、隅々まできちんとしている。店員さんは、サッとやってきて「何かお探しですか」「ご注文は何にいたしましょうか」と尋ねてくる。買い物がすめば、丁寧な「ありがとうございました」が返ってくる。全てがとてもなめらかに淀みなく運んでいく。確かにこんな便利な国はないかも知れない。こんなに「お客様」にサービスする国はないかも知れないと思う。だが、そこには生身の人間対人間の面白さは皆無だ。極端な話、ロボット店員だって構わないわけだ。実際、コンビニなどのレジで見かけるシーンは、店員さんがお決まりの文句を口から発していても、それに対してお決まりでもいいから受け答えするお客の姿はない。

オランダの町は大抵中心の広場に市(いち)が立つ。あちこちに大型スーパーマーケットもあるが、その隣に昔ながらの小売店が共存している。人々は週一回の市場で売り手と買い手のやり取りを楽しみ、スーパーでの買い物の味気なさを補うべく、小売店で店員と言葉を交わしながら好みにぴったり合った買い物をする。無愛想な店員もいれば、いやに調子のよい店員もいる。それはそれで面白みがある。日本式ショッピングには効率の点では叶わないかも知れないが、一人一人の顔が見える点では互いに「人間」と相対していると納得できるのである。

毎日の何気ない暮らしぶりの違いが、人々の顔つきや振る舞いの違いとなって醸し出され、そのまま私には空気の違いのように感じられる。どっちがいいとか悪いとか、優劣をつける話ではないが、少なくとも今の私には日本の空気は穏やかすぎるような気がする。
(May 23, 2001)

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