海外に暮らして

 この戦争について-米英軍によるイラク攻撃に思う


始まって欲しくないと祈っていたイラクへの攻撃がついに始まって18日が経ちます。あれほど全世界で反戦運動が広がる中、ブッシュ大統領はイラク国民を解放するという大義名分をもって、ゴーサインを出しました。「なぜいま?」という私達の疑問を残して。爾来、テレビもラジオも戦争一色です。暗闇の中に突如閃光とともに轟音がとどろき、間断なく砲弾が飛び交う映像、瓦礫の山と化した町、負傷した一般市民、死者を弔う葬列、湾岸戦争のときに何度も目にしたのと同じような映像が流れます。人はなぜ殺しあわなければならないのだろうか、なぜ互いに許しあうことができないのだろうか。この根源的な問いに答えを見出せないまま、こうやって平和に暮らしていられることへの感謝の思いを新たにします。それと同時に、罪もない人々が無念の思いで死んでいくその同じときに、何不自由ない暮らしを享受していることへの後ろめたさ、助けて、という叫びに何もできずにいることへの後ろめたさを感じないわけにはいきません。

毎日流される戦争報道を見ていると、湾岸戦争時と比べて、現場からの映像やレポートが多いことに気づきます。あたかも目の前で戦闘が繰り返されているような臨場感です。「これは映画のワンシーンではないのだ。本当に人が死んでいくのだ、あの大砲から打ち出された弾がイラク兵やイラク市民を直撃するかもしれないのだ、このカメラを回している人だって次の瞬間には砲弾に当たってしまうかもしれないのだ。そして悲しみと恐怖が彼らを包んでいくのだ」「あの若い兵士達は、いまどんな思いで戦場に立っているのだろう」と私はいつの間にか、子を思う母の気持ちでテレビ画面を見てしまいます。

こうした迫真のレポートを可能にしたのは戦地で兵士達と寝食をともにする従軍記者たちの存在で、今回は湾岸戦争時とは比べ物にならないほど取材・報道の自由を認められているそうです。現在、BBCだけでも16人が従軍記者として働いており、その他の各メディアも同様にレポーターを送っているのでしょう。彼らのレポートは私達に戦争のさまざまな人間模様を伝えてくれます。その中で心に残った映像がありました。一つはイギリス軍兵士とイラク人地元サッカークラブの間で行われたサッカーゲームでした。戦争はポリティカルなもので、自分達には互いに憎しみ合う理由は何もないと、ゲームに興じる彼らの後ろ姿が語っているような気がしました。もう一つはイスラム教シーア派の聖地カルバラとナジャフに入ったアメリカ軍指揮官の言葉でした。「それまでイスラム教徒にとって聖地がいかに大切な場所なのか想像がつかなかったが、実際にその聖地でイスラム寺院を目の前にして初めて納得できた。聖域は尊重したい、できるなら踏みにじるようなことはしたくない。」イスラム教に対する戦いではないことを喧伝したいアメリカ側の意向もあっての報道だったのかもしれませんが、この言葉は私にとても大切なことを教えてくれます。自分にとって大切なものがあるなら、同様に相手にも大切なものがある。その思いこそが、互いを認めあってこの世界で共存していける道につながるのだと思います。相手の痛みを自分のこととして受け止めることができるなら、少なくとも自分から相手を傷つけたりはしないでしょう。

そんなことを考えている間も戦争は続いています。今もまた悲しみが生まれ、さらに広がっていくのです。このことに慣れてしまってはいけないのだと思います。
(Apr. 6. 2003)

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