日経新聞「教育を問う」シリーズ を読んで 毎度日経新聞を引き合いに出して、「これしか読んでないの?」といわれそうだが、もう少しおつきあいいただきたい。今回は11月1日付「(10)自由と規律・よき市民はどこへ」から。 10月初め、東京多摩地区にある中学校の運動会で騒ぎが起こった。 最初は、わが子の活躍を撮ろうとビデオカメラを手にした親同士が、場所取りをめぐって始めた口論だった。教師や他の親たちまで巻き込む混乱状態になった。競技は30分間中断、-中略- 騒ぎを鎮めたのは女子生徒の場内放送だった。「私達の運動会を続けさせて」。 以前から学芸会や音楽会でも、わが子をカメラに収めたい一心で他の人の邪魔になるのも省みずに行動する人たちがいることは気づいていた。だけど、ここまでエスカレートするかなあというのが、この記事を読んだまず最初の感想だ。授業参観で、自分の子がどんな様子か、それだけを見て、さっさと帰っていくご父兄。音楽会で、せっかく来て貰ったゲスト音楽家の演奏を静かに聴かずに隣の人と私語に勤しむご父兄。 枚挙にいとまがない。 自分の子がかわいいなら、よその親にとってもわが子はかわいい訳で、そう考えたら、我先にという感覚に少しはブレーキをかけられそうな気がする。また、自分の子は一人だけで学校生活を送っているわけではない、級友がいて先生がいて、用務員さんや給食のおばさんがいて、その人達から毎日目に見えること見えないこといろいろと教わっている、そう考えたら、親としてそんなに勝手な行動は出来ないと思う。 福沢諭吉の「身の挙動にて教えうることは書を読みて教えうるよりも深く心の底に染み込むものにて・・・自身の所用は決して等閑(なおざり)にすべからず」という教えは、古くて新しい金言かもしれない。 核家族、すっかり言い旧された言葉だが、従来の封建的社会構造に別れを告げる家族形態だった。最近は家族の形態が更に様相を変えているようだ。ケータイ化現象、一家に一台の固定電話では味わえなかった自由。この味を知ってしまった現代人は、更に住宅にもこの自由さを求め始めているという。そうなると家族という古来の結びつきは更に更に弱まっていくだろう。極端な話、同性同士の結婚も認められ始めた世の中だ。家族はこうあるべきという規範はどこにも見いだせない時代なのかも知れない。とはいえ、子どもは一人で大人になるわけではない。どんな場合でも「大人」がお手本を示すより他に、こどもを教え導く方法があるだろうか。(Jan. 24, 2001) |
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