直視しよう

日経新聞「教育を問う」シリーズ を読んで

約10年ごとの学習指導要領の改訂にあわせて実施する学力調査。82-83年と、95-96年の調査結果を比べると、全く同じ中学理科の問題19問のうち14問、中学国語の10問のうち7問で正答率が下がった。
文部省は「数学では正答率が上がった問題が多い。統計には誤差もある」と弁明するが、学力低下の「黄信号」だ。ところが、この学力データが文相の諮問機関である教育課程審議会には「学習状況はおおむね良好」と報告される。97年のことだ。そこで2002年度から小中学生に教える内容を約3割減らす新指導要領が固まった。(日経新聞12/16)

これは、「スローガン行政・夢におぼれ 現場は困惑」
という見出しの出だしの一節だ。
この章の最後は次の言葉で終わっている。

85年1月。文部省は臨時教育審議会(臨教審)に「日本の初等中等教育は世界最高水準」との文書を提出した。いじめや校内暴力が社会問題化していた時のことだ。現実を直視しない行政はいまも続く。「ゆとり」といった修辞だけが先行して、夢に溺れるようでは、教育改革はかけ声倒れに終わる。

響きのよい言葉で適当にオブラートをかぶせる、それは日本語の持っている特性と言える部分もあるかも知れないが、それ以上に、くさい物には蓋、建て前と本音、社交辞令、といったきれい事で済ませたいという「本音」が見え隠れする。

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イスラム文化には「インシャラー」という便利な言葉がある。神の思し召しのままにという意味だそうだが、イスラム圏にしばらく暮らした私は,、人々の敬虔な態度に敬意を表すると同時に、何か不都合があっても全て「それは神の思し召しだから」といって片づけてしまうことへの反発があった。こんな無責任な言葉があるだろうかと憤慨したものだ。それと同じように、何か人にものを頼んだとき、「明日やりましょう」というのは「将来やりましょう」と同じ意味だと思えと先輩から教えられた。これも私には無責任な返答に思える。こういうとき私は「明日やるって言ったじゃないの! だから私は一日待っていたのに」と憤慨し、そのあと、決まって私は「日本だったらこんなこと決してない。明日といったらちゃんと明日やってくれる」とこぼしたものだ。そうなのだ、「きちんとしている」「きっちりやる」というのは日本のトレードマークだったはずだ。もちろん現在だってきちんとしている人は日本にもたくさんいるに違いない。また、それを強みにしているビジネスも多数あるだろう。「きちんと仕事をする」 そのためには、まず現実を直視し、いま何をなすべきかを正確に見極めた上で、綿密に立てた計画があればこそ、そのビジネスは成功するのだと思う。


教育はもちろんビジネスとは違うだろう。だが、最初の段階で見極めを誤ってしまったら、どうにもならない。あとで「おかしいですねえ、我々の計画は素晴らしいから,、うまく行かなかったのはあなた方計画を実行する側に問題があったんじゃないですか」と文部省の方が仰ったとしても、最初の拠って立つ土台が違っているんじゃ、誰にも責任を押しつけられないと思うのだが。 (Jan. 22, 2001)



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