バグママ流・みてある記
オランダには函館の五稜郭によく似た要塞都市がいくつかある。その中でもナールデンは14世紀頃に築かれた要塞の形をそのまま残した美しい街だ。満々と水を湛えた二重の濠によって周囲と隔てられたこの街には、昔ながらの人々の暮らしが今も絶えることなく受け継がれている。 骨董品店や古道具屋が何軒も並ぶ石畳のストリートを行くと、淡紅色の薔薇の花が枝を張ったウインドウに高級ステーショナリの店と見まがうようなしゃれたディスプレイの店がある。表の看板にはHandboekbinderij(手作り製本屋)と記されている。店内には手漉きの紙でできた便せんや封筒、手作りのしっかりしたスケッチ帳などと一緒に、和綴じ風のノートなども置かれている。厚手の表紙に使われている紙も和紙らしい。この店のご主人はどんな人だろうと俄に興味が沸いてきた。 ガラス戸越しに店の奥に見えるのは仕事場のようだ。古ぼけた壁、ひっそりと静まり返ったその仕事場には、大きな作業台の上に目打ちやスケールのような小道具と一緒に様々な厳つい道具が置かれている。各種紙類がしまってあるらしい引き出しもずらっと並んでいる。時の流れがここだけ止まってしまったような、どこか懐かしい香りだ。 書物の仕立屋ボニー・コルフェライン氏は、この場所で20年余りの間、こつこつと装丁の仕事をしてきた。古くなった本の表紙の付け替え、注文に合わせた一点ものの装丁やアルバム作りなども手がける。最近は日本ブームということもあって、和紙の人気が高く、三椏紙や楮紙、檀紙など日本から直接取り寄せられている。コルフェライン氏は、和綴じの方法を英語で書かれた指南書を見ながら独学でマスターしたそうだ。氏の日本文化への関心はそれだけに留まらず、仕事場にはなんと琵琶の平曲が流れていた。だが、何と言っても素晴らしいのは、本格的な厚表紙、それも表革に金箔の型押し模様がふんだんに使われている、祖父の書棚にあったような作りの本や、パーチメントを用いた温かみのある装丁だ。パーチメント = parchment = 羊皮紙、ヨーロッパで古代から筆写用に使われてきたなめし革のことで、乳白色、かすかに透明感があり、私は実物を目にしたのは初めてだったので、その繊細な風合いに、大いに心惹かれてしまった。 コルフェライン氏は、奥から何冊か古ぼけた本を持ってきて私に見せてくれた。仕事に取りかかる前の、新しく生まれ変わる前のよれよれの書物。しみだらけの羊皮紙、角がほとんどぼろぼろになってしまった革表紙の分厚い本、厚さ10センチ近くある止め金具付きの聖書。どれもかなり古い。中にはなんと400年以上前のものもある。人々は、代々受け継いできた書物をこうやって生まれ変わらせて、後世に伝えていくのだ。日本だったら博物館にしかなさそうだ。普段は全く目にすることなど無いだろう。
1450年、グーテンベルクによって生み出された活版印刷術はその後爆発的な書物の普及をもたらした。その中にあって特にオランダは出版が盛んに行われ、17世紀には世界最大の出版部数を誇り、各国で禁書となった本がオランダなら出版できたという(長坂寿久著「オランダモデル」より)。 装飾的な装丁の技術はイギリスやフランスには敵わなかったようだが、コルフェライン氏のような職人がたくさん生まれたのだろう。ただ、時代の波は否応なしに襲ってくる。現在、オランダ国内に同業者はまだまだ存在するが、彼のように自営で、しかも目抜き通りに面した仕事場を持っているのは他にいないそうだ。その彼もあと15年もしたら引退する。息子が父親の後を継ぐことはないという。 (Sep. 1, 2001) |